大宅壮一
大宅 壮一(おおや そういち、1900年9月13日 - 1970年11月22日)は、日本の評論家、作家、ジャーナリスト。
概要[編集]
時代の風潮を鋭く明快に斬る社会評論で、特に戦後に人気を博した。1971年、大宅壮一の膨大な雑誌のコレクションを元に作られた専門図書館として「大宅壮一文庫」が設立された。
三女は大宅映子で、父のジャーナリストの側面を受け継いでいる。
経歴[編集]
1900年(明治33年)9月13日、大阪府三島郡富田村(現高槻市)に父・八雄、母・トクの三男として生まれる。生家は醤油醸造業を営む。6歳のとき富田尋常小学校に入学し、12歳で卒業する。1912年4月、富田尋常高等小学校に入学、このころから少年雑誌に投稿し、入選するようになる。
1915年、富田尋常高等小学校を卒業。同年4月、旧制茨木中学(現・大阪府立茨木高等学校)に入学。尋常小学から現役で進学した川端康成が三学年上に在籍していた。登下校時に寄った『虎谷』という書店は、川端も利用していた。投稿は中学3年まで続く。このころ父親は酒を飲んで働かず、兄の勇一も放蕩者であり得意先や掛取で頭を下げるのを嫌った為、家業はもっぱら壮一が担った。そのため学校には2日に1回しか行かなかった。中学生向けの雑誌『少年』『少年倶楽部』に作文や俳句を投稿し、メダルや昆虫採集用の虫籠などの懸賞を受賞している。家業をこなしつつ文学に親しむ一方で、ドイツ語とフランス語を独習していた。教育勅語への疑問、米騒動の支持などから中学校からは好ましからざる生徒と見られていた[1]。
1918年(大正7年)7月、父親が胃がんのため死去。同年11月、18歳(4年生)の時、米騒動に際して米騒動を煽動するような演説をおこない、大阪・茨木中学を諭旨退学となった。
1919年(大正8年)、徳島中学で専門学校入学者検定試験(専検[注 1])を受け、100人中ただ一人合格し、旧制高等学校入学資格を得る。同年9月、第三高等学校(現・京都大学教養部)文科乙類に入学する。父を失い兵役にある兄に代わり家業を手伝うため、京都の吉田までは実家から汽車で通った。登校途中の汽車内で、同じく大阪の実家から病気のために汽車通学をする梶井基次郎と出会った。大宅は梶井と仲良くなり文学や恋愛を語り合った。また大宅と同じクラスであり、梶井とは寮で同室だった中谷孝雄が二人の友として加わった。
1922年(大正11年)3月、第三高等学校を卒業する。三高卒業と同時に最初の妻である山本和子と結婚する。山本和子は大川光三より紹介された加島銀行員であった。同年4月に東京帝国大学(現・東京大学)文学部教育学科に入学するが、すぐ社会学科に転学する。東大「新人会」に入る。大学1年の時に妻和子を東京へ呼び、下落合に間借りする。
1923年、東大通学の傍ら、生活費のため下谷の岩倉鉄道学校の英語講師となる。同年9月に関東大震災で学校自体が消失し休校となり失業する。戯曲「まずしければ」を『文芸時代』に発表する。賀川豊彦らの影響をうけ,日本フェビアン協会創立に参加した。参加者には川原次吉郎、宮崎龍介、木村毅、秋田雨雀、大宅壮一、安部磯雄、松永義雄、山崎今朝弥、富士辰馬等がいた。「一年もたたずに姿を消してしまった」とウィキペディアにあるが、これは誤りである。日本フェビアン協会の活動を通じて出会った近藤愛子と親しくなると妻和子も浮気したため離婚となる。近藤愛子と再婚したが後に結核で亡くなった。
1925年、新潮社の嘱託となり、『社会問題講座』(全13巻)の編集に携わる。東京大学3年生に4年間籍を置いたが退学した。大宅は「ほとんど学校に出ず、授業料も納めなかったら、いつのまにか除籍されてしまった」と回想する(『大宅壮一自伝』)。
1926年1月、雑誌『新潮』巻頭「新潮評論」を無署名で執筆する。同年12月号に「文壇ギルドの解体」を昭和元年署名入りで発表し、文筆活動に入る。当初は「左翼のパリパリの評論家」としてしられていた。『赤い星』(翻訳、新潮社)を刊行した。
1927年、世界文学全集の『モンテクリスト伯』下巻を翻訳。この印税で東京吉祥寺に家を新築する。
このころ、週刊新聞『時局新聞』の編集顧問にも名を連ねる。1年余の短命であったが、大宅の痛烈な評論のほかに作家・漫画家によるユニークで直截な評論・小説・画があり、近代文学史・思想史・ジャーナリズム史研究に活用される。
1931年、大宅昌と結婚した。前妻を亡くしたばかりの大宅壮一が富山へ講演会に行き、壇上から一目ぼれし、彼女を講演後の座談会に出るようにメモを渡し、見初められ5月に結婚した。大宅昌はその頃、小学校の先生をしていた。太田壮一は手紙を連日出して口説き落とした。妻の実家では、『大宅は左翼だから』と大反対されたが、昌は「大宅をこのまま殺してはならぬ」と一人決断して結婚した。世間では『恐妻』といっていたが、妻はたんすと同じであるべきところにあればいいのだ、と大宅壮一は言っていた。
1934年、東京日日新聞社、大阪毎日新聞の社友となる。このころから海外に旅行するようになり、1935年7月、朝鮮、満州、香港に旅行。翌年の1936年9月は南洋諸島に旅行した。その翌年の1937年には毎日新聞社の従軍記者として、上海、香港、北京、徐州、南京、広東などを回った。1937年(昭和12年)の南京攻略戦では現地を取材しており、南京事件については規模に議論があるとした上で、日本軍による虐殺の存在自体には肯定的証言をしている。
1939年5月、理研映画常務取締役製作部長に就任したが、1941年8月に取締役製作部長を辞任した。
1941年11月、今村均中将を軍司令官とするジャワ方面軍である第十六軍の宣伝文化部隊に徴用された。大宅を推薦したのは『陸軍画報』社長の中山正男である。同じ班には詩人の大木惇夫や漫画家の横山隆一がいた。その後、大木はこの時の経験を基に詩集「海原にありて歌へる」を出版し、その際に大宅は跋文で「戦争といふものは実に素晴らしい文化的啓蒙者である」と書いた。
1942年1月、ジャワ作戦に参加するも、乗っていた輸送船が撃沈される。
1943年4月に設立された啓民文化指導所の総務に就任した。日本占領下のジャワで発行された雑誌『ジャワ・バル』第9号(1943年5月,[復刻版,龍渓書舎,1992年])で,大宅は「啓民文化指導所本部及び映画部指導委員」として紹介されている。このころ「「こんなことをやっていては,日本人は世界中から嫌われる。戦争を早く終結すべきだ」などと,軍に楯をついて,ついには憲兵から危険人物視されるようになった(半藤一利(2006)『恋の手紙 愛の手紙』文春新書)。
1943年10月末、日本に帰国した。
1944年、東京・世田谷の八幡山で自給自足の農耕生活に入る。大宅昌は「私は、農業をするために嫁いだわけではありません」と断固反対して、大宅壮一の評論家としての戦後の活動を支えた。
1945年9月、株式会社凸版印刷の顧問となる。1947年、『改造』12月号に「亡命知識人論」を発表する。この中で大宅壮一は「今後も政治的にはまったく「自由」な立場で,発言し行動したいと思っている。それを第三者が何と批評しようと,もちろんそれは勝手である」と述べている。
1950年頃から本格的にジャーナリズムで活躍。1950年に刊行された「『人間裸像』に収録された文章の初出を調査したところ,15 本中9本が「猿取哲」名で発表されたものであった」と井川充雄は述べる(井川充雄 (2013)「占領期のメディアと文化人」春季研究発表会ワークショップ報告,マス・コミュニケーション研究, 82 巻)。像』によって大宅は,「大宅壮一」としての「再登場」を完全に果たしたと言える。
1954年6月、中近東、ヨーロッパ、アフリカ、ブラジル、中南米諸国へ取材の旅に出る。1955年に「「無思想人」宣言」を行う(『中央公論』1955年5月号)。1920年代の日本共産党シンパの評論家から無思想人となった。鶴見俊輔はこれを「前衛的知識人から傍観者的知識人への転向のコースの典型」と述べた(鶴見俊輔(1959)「後期新人会員――林房雄・大宅壮一」思想の科学研究会編『共同研究転向 上巻』平凡社)。
1956年、『日本の裏街道を行く』で第10回文芸春秋読者賞を受賞。「一億総白痴化」が流行語となる。
1959年9月、ニキータ・フルシチョフ訪米を取材するため渡米した。1965年4月、菊池寛賞を受賞。
1967年(昭和42年)1月に「大宅壮一東京マスコミ塾」(略称・大宅マスコミ塾)を開く。逝去により閉塾するまで、8期480名の塾生を送り出した。
1969年9月、古希の祝賀パーティをホテルニューオータニで開催した。
1970年(昭和45年)11月22日、東京女子医科大学心臓血圧研究所で死去した。葬儀は同年11月28日に青山葬儀所で行われ、同じ北摂出身で、中学同窓の川端康成が弔辞を読んだ。川端康成直筆の弔辞の原本が、雑誌図書館「大宅壮一文庫」で発見されている[2]。
大宅壮一ノンフィクション賞[編集]
生前の1969年(昭和44年)に壮一自身の発案で公益財団法人日本文学振興会(株式会社文藝春秋)の協力を得て大宅壮一ノンフィクション賞が創設された[3]。
人物[編集]
- 大宅壮一は、原稿用紙がなくても、頭で文章を作っておき、原稿用紙に向かって書き下ろすと、きちんと400字、800文字に収めるという名人芸であった。
- 天才といわれた長男が東大ラグビー部で活躍していたとき、頭を強打して、後遺症でその数年後亡くなったことに衝撃を受けた。
- 大宅は三回結婚しているが、年譜には結婚のことは出てこない。
流行語[編集]
大宅壮一の生み出した流行語には次のものがある。
著書[編集]
- 『社会問題講座〈11~13〉』新潮社,1927
- 『千夜一夜物語』(翻訳),中央公論社,1928
- 『英国戯曲集』(翻訳),新潮社,1928
- 『ジャーナリズム講話』白楊社,1935
- 『果たして怪教か?-類似宗教の解剖ー』東京日日新聞社,1935
- 『宗教を侮る』真正社,1937
- 『新興宗教』板垣書店,1950
- 『日本の遺書』ジープ社,1950
- 『人間裸像』板垣書店,1950
- 『実録・天皇記』鱒書房,1952
- 『蛙のこえ』鱒書房,1952
- 『世界の裏街道を行く〈〔第1〕〉中近東・欧洲篇』文藝春秋新社,1955
- 『無思想人宣言』鱒書房,1956
- 『昭和怪物伝』角川書店,1957
- 『僕の日本拝見』中央公論社,1957
- 『女傑とその周辺』文藝春秋新社,1958
- 『わが青春放浪記』春陽堂書店,1958
- 『大学の顔役』文藝春秋新社,1959
- 『日本の人物鉱脈』文藝春秋新社,1959
- 『日本新おんな系図』中央公論社,1959
- 『フルシチョフ遠征従軍記』新潮社,1960
- 『日本のいちばん長い日』KADOKAWA,1973
- 『炎は流れる (明治と昭和の谷間)』第1巻~第4巻,文芸春秋新社,1964
- 『青春日記』中央公論新社,1979
注[編集]
参考文献[編集]
- ↑ 大宅壮一(2010)『大宅壮一自伝』日本図書センター
- ↑ 川端康成直筆の弔辞見つかる東京新聞,2021年5月16日
- ↑ 大宅賞受賞者一覧文芸春秋,2021年5月