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野村克也

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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Baseball Pitcher.jpg 野村 克也 Baseball Batter.jpg
基本情報
国籍 日本国旗.png日本
出身地 京都府竹野郡網野町(現・京丹後市
生年月日 1935年6月29日
没年月日 2020年2月11日(満84歳没)
身長
体重
175 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1954年
初出場 1954年6月17日
最終出場 1980年10月4日
Wikipedia-logo.png 野村克也
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1989年
選出方法 競技者表彰

野村 克也(のむら かつや、昭和10年(1935年6月29日 - 令和2年(2020年2月11日)は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ監督野球解説者野球評論家タレント。愛称は「ノムさん」「ムース」。血液型はB型。

家族[編集]

妻は野村沙知代。1979年4月19日に再婚した。実息はプロ野球指導者の野村克則
実業家の団野村、元プロ野球選手のケニー野村は継息。先妻との間にも息子がいる。

野村克也は再婚で、前妻の正子とは1960年に結婚し、1963年に長男の野村陽一が誕生する。野村正子の浮気が原因となり離婚したとされる。野村正子は南海電鉄の社長令嬢で、貧乏な家庭の克也とは何もかも合わなかったという。
克則は克也の逝去の直前、異母兄に克也の紹介で初対面した[1]

略歴[編集]

京都府丹後の野球強豪校ではない峰山高校出身で、昭和29年(1954年)に契約金ゼロのテスト生で南海(現在のソフトバンクホークス)に入団する。3年目に定位置を獲得すると、強打の捕手として活躍した。昭和40年(1965年)に戦後初の三冠王を達成する。昭和45年(1970年)に選手兼任監督となり、昭和48年(1973年)にリーグ優勝を果たした。1976年に南海監督を解任されているが、これは、沙知代が前夫との離婚成立前から自由に監督室に出入りするなど度重なる公私混同が批判されてのこととされている。

打者をささやき戦術で翻弄し、南海の兼任監督解任後も、千葉ロッテマリーンズ西武ライオンズに「生涯一捕手」を貫いて渡り歩いた。昭和55年(1980年)に45歳で現役引退する。選手としては3017試合に出場し、通算打率は2割7分7厘で、本塁打王になること9回(通算657本)、打点王7回(通算1988点)、首位打者1回、最多安打1回(通算2901安打)、MVP5回であった。ベストナインには19回選ばれている。なお出場試合・本塁打・打点・安打の通算記録は令和2年(2020年)2月の時点でいずれも歴代第2位の記録である。

引退後は、プロ野球のコーチに就かず、野球評論家となったが、この際にテレビ中継でストライクゾーンを9分割した「野村スコープ」で配球を分析して解説者として評判となった。また、沙知代がオーナーとなった少年野球チームで監督を務めていた。

平成元年(1989年)に野球殿堂入りを果たすも、プロ野球との縁は遠のいたままだったが、平成2年(1990年)にヤクルトスワローズのオーナーに請われて、自身初の専任監督として12年ぶりに現場復帰。1998年シーズン終了後の退団まで、リーグ優勝4度、日本一を3度果たした。これはデーター重視のID野球を掲げたのが一因である。

平成11年(1999年)から平成13年(2001年)まで阪神タイガーズの監督を務めたが、3年連続で最下位に終わっている。そして3年目の同時期、沙知代が脱税容疑で東京地検特捜部に逮捕されたことから、引責辞任に追い込まれた。

その後、社会人のシダックスの監督を経て、平成18年(2006年)から球団創設2年目の楽天イーグルスで、平成21年(2009年)まで監督を務め、楽天を2位に押し上げて球団を初となるクライマックスシリーズ進出を成し遂げている。監督時代の通算はリーグ優勝5回、日本一3回、1565勝1563敗76分であった。

監督時代の勝利数は令和2年(2020年)2月時点で歴代5位。プロ野球生活で一度もコーチの職務に就いたことは無かった。

試合後のインタビューでの独特のぼやきも人気を集め、「ノムさん」の愛称で親しまれた。しかし晩年はおしどり夫婦として知られた愛妻の沙知代が平成29年(2017年)12月に85歳で死去するなど不幸もあった。

令和2年(2020年)2月11日午前3時30分、虚血性心不全のため、東京都世田谷区の自宅で死去した。84歳没。入浴中に倒れているのを家政婦に発見されて、自宅から病院に搬送されたが、死亡が確認されたという。虚血性心不全は奇しくも2年前に死去した愛妻・沙知代と同じ死因であった。

野村の意向により、京都・京丹後市と東京の寺院に分骨された[2][3]。戒名は「慈光院眞球克将居士」[3]

脚注[編集]

外部リンク[編集]