民主社会主義研究会議
民主社会主義研究会議(みんしゅしゃかいしゅぎけんきゅうかいぎ)は、民主社会主義の思想・研究団体。略称は民社研(みんしゃけん)。前身団体は民主社会主義連盟(民社連)、後身団体は政策研究フォーラム(政研フォーラム)。民社党の友誼団体で、同党の理論的支柱の役割を果たした。民主労働教育会議の構成団体の1つ。
概要[編集]
1959年9月12日に開催された日本社会党第16回大会で西尾末廣の処分が可決されたことを契機として、9月16日に社会党西尾派、全労系代議員により「日本社会党再建同志会」が結成され、1960年1月24日に河上派の一部も加わって民主社会党(のちの民社党)が結成された。この状態と関連して、蠟山政道が1959年10月26日に開催された民主社会主義連盟(民社連)思想委員会で民社連の発展的解消、民主社会主義の思想と政策の研究のための新機関設立の構想を説明した。蠟山構想は承認され、11月7日の第2回思想委員会で1月に第1回民主社会主義研究会議を開催すること、思想委員会委員長としての蠟山の名前で会議の招集を呼びかけることが決定された。1960年1月9日と10日に第1回民主社会主義研究会議が文京区の拓殖大学茗荷谷ホールで開催され、蠟山政道、猪木正道、森戸辰男ら560名が参加した。閉会後の懇談会で民主社会主義研究会議を常設機関にすることが決定され、稲葉秀三、猪木正道、関嘉彦、土屋清、土井章、中村菊男、波多野鼎、武藤光朗、蠟山政道、和田耕作(事務局長)の10名が準備委員に選任された[1]。2月13日に民社連が発展的解消し、民主社会主義研究会議(民社研)が創立された。役員は初代議長に蠟山政道、理事に猪木正道、関嘉彦、土屋清、土井章、中村菊男、武藤光朗、和田耕作、監事に稲葉秀三、波多野鼎が選出された[2][3]。日本フェビアン研究所代表の和田耕作が事務局長を引き受け、民社連から髙木邦雄、今井忠剛、高山芳子の3名、社会思想研究会(社思研)から遠藤欣之助が事務局員となって事務局が設けられた[4]。
民社党とは全く別個の独立した団体であるが、密接な関係を持ち[3]、民社党、同盟と三位一体の民社ブロックを形成した[5]。会員は民社党の党員である人とない人がいた[6]。民社党の綱領、規約、経済基本政策案の作成には民社研の役員が携わり、特に綱領原案は関嘉彦、経済基本政策案は土屋清がそれぞれ起草した[3]。民社研の準備委員のほぼ全員が社思研の会員であり、1960年4月に社思研は団体会員として民社研に加入した[7]。また電力会社、鉄鋼会社をはじめとする主要企業、同盟の前身にあたる全労系の労組が賛助会員として民社研に加入した[8]。1960年3月時点の会員数は550名[9]。
事業としては、民主社会主義全国研究会議、民社研労働学校、各種研究委員会、文化講演会、『改革者』『民社研叢書』『学習ライブラリー』その他の出版などを行っていた。毎年1月に東京で全国研究会議を開催し、会議の内容を報告書にまとめて刊行した。第1回は『日本における民主社会主義の課題』(1960年)、第2回は『冷戦的共存下の民主社会主義の任務』(1961年)、第3回は『福祉国家への道』(1962年)、第4回は『新しい産業秩序をもとめて』(1963年)、第5回は『福祉国家を実現しよう』(1964年)。1981年の第22回からは報告書の刊行を取り止め、雑誌に分載するようになった。1963年5月から「民社研労働学校」を開講して教育活動を行い、民社研の財政的基盤にもなった。最盛期の1970年から71年にかけて年間27回開催し、3500人が受講した[3]。1989年に「民社研労働学校」から「民社研セミナー」に名称を変更し、講義時間を短縮した[10][11]。1994年に「民社研セミナー」から「新世紀セミナー」に名称を変更した。民社研編の出版物には『民主社会主義とはなにか』(社会思想研究会出版部[現代教養文庫]、1960年)、『幻想の克服――70年代日本の進路』(原書房、1971年)、『大系 民主社会主義(全6巻)』(文藝春秋、1980-81年)などがある。
1994年5月12日の理事・評議員会で政策研究フォーラムに名称を変更した[11]。社思研や民社研の流れを汲む団体には、国家基本問題研究所や河合栄治郎研究会がある[12]。韓国では全斗煥大統領時代に民主化の気運が高まる中、日本と同様な民社研を作りたいという要望が学者から出て、1983年7月にソウルで韓国民社研が創立された。日本の民社研と提携していたが、1994年以降は連絡が途絶えている[11]。
機関誌[編集]
機関誌は『改革者』(月刊、B4版)。1960年4月号から1965年6月号までは『民主社会主義』という誌名だった。1965年7月号(通巻64号)から『改革者』に改題した。民社党の西村栄一委員長時代(1967~1971年)には「社公民路線」批判、「一つの中国、一つの台湾」支持、沖縄返還協定賛成の論陣を張った[13]。1994年以降も政策研究フォーラムの機関誌として引き続き発行が続けられている。
役員[編集]
歴代議長[編集]
歴代事務局長[編集]
- 和田耕作(1960年2月~1967年4月)
- 野田福雄(1967年4月~1970年3月)
- 大谷恵教(1970年4月~1971年5月)
- 野田福雄(1971年5月~1973年11月)
- 吉田忠雄(総務担当理事、1973年11月~1980年3月)
- 佐藤寛行(1980年3月~1993年12月)[11]
1964年時点の役員[編集]
- 議長:蠟山政道
- 常任理事:関嘉彦、武藤光朗
- 理事:猪木正道、大島康正、加藤寛、木下和夫、佐古純一郎、高木邦雄、高須裕三、竪山利忠、土井章、中村菊男、中村勝範、野田福雄、迫間真治郎、山田文雄、吉田忠雄、和田耕作
- 監事:稲葉秀三、波多野鼎[14]
1972年時点の役員[編集]
- 顧問:蠟山政道
- 議長:関嘉彦
- 理事:碧海純一、稲葉秀三、入江通雅、内海洋一、漆山成美、大島康正、大谷恵教、岡野加穂留、加藤寛、気賀健三、木下和夫、高坂正堯、小松雅雄、佐藤寛行、重枝琢巳、高木邦雄、竪山利忠、土屋清、土井章、中村勝範、中村菊男、西義之、野田福雄、芳賀綏、波多野鼎、原豊、堀江湛、丸尾直美、武藤光朗、村田宏雄、矢島鈞次、吉田忠雄、和田耕作、渡辺朗[15]
1979年時点の役員[編集]
- 議長:関嘉彦
- 顧問:蠟山政道、西尾末広
- 理事:碧海純一、稲葉秀三、猪木正道、入江通雅、内田満、内海洋一、漆山成美、大島康正、大谷恵教、加藤寛、兼清弘之、気賀健三、慶谷淑夫、高坂正堯、小松雅雄、佐藤寛行、重枝琢巳、高木邦雄、竪山利忠、土屋清、土井章、中村勝範、野田福雄、芳賀綏、波多野鼎、原豊、藤田至孝、堀江湛、前川一男、丸尾直美、武藤光朗、村田宏雄、矢島鈞次、吉田忠雄[16]
1983年時点の役員[編集]
- 議長(代行):小松雅雄
- 顧問:稲葉秀三、江上照彦、気賀健三、関嘉彦、竪山利忠、土屋清、武藤光朗
- 理事:碧海純一、入江通雅、内田満、内海洋一、漆山成美、大谷恵教、加藤寛、兼清弘之、慶谷淑夫、高坂正堯、佐藤寛行、重枝琢巳、高木邦雄、田中良一、中村勝範、芳賀綏、林卓男、原豊、藤田至孝、堀江湛、丸尾直美、村田宏雄、村松剛、矢島鈞次、吉田忠雄
- 監事:上條末夫、和田春生[17]
1994年時点の役員[編集]
- 議長:小松雅雄
- 顧問:稲葉秀三、氣賀健三、関嘉彦、武藤光朗、和田耕作
- 理事:入江通雅、内田満、内海洋一、大谷恵教、加藤寛、兼清弘之、上條末夫、木村汎、慶谷淑夫、高坂正堯、重枝琢巳、鈴木肇、髙木邦雄、田久保忠衛、中村勝範、野尻武敏、芳賀綏、林卓男、原豊、藤田至孝、堀江湛、丸尾直美、村田宏雄、村松剛、矢島鈞次、山口義男、吉田忠雄
- 監事:髙池勝彦、和田春生[18]
事務所[編集]
- 東京都新宿区四谷3-10 山田ビル2F(1960年2月~)
- 東京都渋谷区神南1-20-6 根本ビル(1971年4月~)
- 東京都千代田区神田駿河台3-5 荒井ビル(1986年4月~)[19]
- 東京都港区芝2-20-12 友愛会館2F(1994年4月~)[11]
民社研メンバーが関わりのある組織[編集]
- 1983年時点の民社研役員の大半が富士社会教育センター(富士政治大学校)、社会労働研究所(SAS学校)、労働問題懇話会、日本労働教育センター、日本生産性本部、社会経済国民会議などで「反共労務屋的活動」を行っている[20][21]。
- 1983年時点の日本経営者団体連盟(日経連)労働問題研究委員会の専門委員を務める7人の学者のなかに加藤寛と矢島鈞次の2人が加わっている[20]。
- 1983年時点で自民党ブレーンとなっている民社研役員は少なくなく、新総合政策研究会の顧問、自由社会研究会のメンバー、「日本を守る国民会議」や「日米安保の改定を求める百人委員会」(安保百人委員会)などの改憲運動の組織者、内閣情報調査室の出版関係の資料提供・執筆スタッフ[20]、平和・安全保障研究所のメンバー、総合安全保障研究グループのメンバーのなかに民社研役員がいる[24]。1984年に設置された臨時教育審議会(臨教審)のメンバーのうち11人が同盟、民社党、民社研と関わりがある[25]。
- 1983年時点の民社研役員34人のうち少なくとも13人が国際勝共連合、統一協会および関連組織の世界平和教授アカデミー、「東アジアの平和と繁栄を守る委員会」と何らかの関わりがある[20]。
- 1984年時点の民社研役員36人のうち17人が共産圏の自由抑圧を告発する日本人権委員会(自由人権委員会)、自由言論委員会、言論人懇話会の役員・同人である[26]。日本文化会議[20]、日本自由主義会議の役員のなかにも民社研役員がいる[27]。
- 1983年時点のサンケイ新聞の「正論」欄や雑誌『正論』の執筆陣の半数近くが民社研の学者、評論家である[28]。自由社が発行していた総合雑誌『自由』の編集委員および執筆者は民社研のメンバーや民社党のブレーンが多い[29]。
出典[編集]
- ↑ 和田耕作「第一回民主社会主義研究会議 経過報告」民主社会主義研究会議『日本における民主社会主義の課題――第一回民主社会主義研究会議報告書』民主社会主義研究会議、1960年
- ↑ 中村勝範著、東京政治研究所編『日本における民主社会主義の伝統』社会思潮社、1960年
- ↑ a b c d 佐藤寛行「民社研三十年小史――高く掲げた「民主社会主義」――「民社連」八年の実績の上に三十年」『改革者』第30巻第8号(通巻352号)、1989年11月
- ↑ 遠藤欣之助「思想の先駆者〈二の②〉民社研発足――知的リーダー蠟山政道」『改革者』第34巻第6号(通巻398号)、1993年9月
- ↑ 藤生明「生きていた民社党、保守運動をオルグする」論座、2019年5月5日
- ↑ 和田耕作、玉木義豊「政界潮流この人に訊く 民社党の微妙の政策転換――第一期定期大会から」『新日本経済』第29巻第3号、1965年3月
- ↑ 社会思想研究会編『社会思想研究会の歩み――唯一筋の路』社会思想社、1962年
- ↑ 関嘉彦「回想録――社思研から民社研へ(第8回)」『改革者』第38巻第8号(通巻445号)、1997年8月
- ↑ ものがたり戦後労働運動史刊行委員会編『ものがたり戦後労働運動史Ⅹ――全民労協の発足から連合結成へ』教育文化協会、発売:第一書林、2000年
- ↑ 「労働学校通信」『改革者』第29第12号(通巻344号)、1989年3月
- ↑ a b c d e f 政策研究フォーラム編「創立40年の歩み――民社研から政研フォーラムへ」『改革者』第41巻第1号(通巻474号)、2000年1月
- ↑ 【湯浅博 全体主義と闘った思想家】独立不羈の男・河合栄治郎(72)後継者編(3-3)(4/4ページ) 産経ニュース、2016年12月10日
- ↑ 石上大和『民社党――中道連合の旗を振る「責任政党」』教育社、1978年、94-95頁
- ↑ 国民政治年鑑編集委員会編『国民政治年鑑 1964年版』日本社会党機関紙局、1964年、862頁
- ↑ 『改革者』第147号、1972年6月
- ↑ 『改革者』第20巻第3号(通巻231号)、1979年6月
- ↑ 『改革者』第24巻第4号(通巻445号)、1983年7月
- ↑ 『改革者』第35巻第1号(通巻405号)、1994年4月
- ↑ 佐藤寛行「民社研三十年小史(下)高く掲げた「民主社会主義」 「民社連」八年の実績の上に三十年」『改革者』第30巻第9号(通巻353号)、1989年12月
- ↑ a b c d e f 青木慧『政労使秘団――組織と人脈』汐文社、1983年、144-147頁
- ↑ 青木慧『政労使秘団――組織と人脈』汐文社、1983年、184-185頁
- ↑ 吉村宗夫『自立する労働運動――知られざるインフォーマル組織』労働旬報社、1983年、143頁
- ↑ 玉井克輔『資本の思想攻撃』労大新書、1985年、123頁
- ↑ 青木慧『改憲秘団――組織と人脈』汐文社、1983年、103-116頁
- ↑ 青木慧『ドキュメント 臨教審解体――教育支配の構造』あけび書房、1986年、253頁
- ↑ 青木慧『タカ派知識人――組織と人脈500人』汐文社、1984年、206頁
- ↑ 青木慧『タカ派知識人――組織と人脈500人』汐文社、1984年、113頁
- ↑ 青木慧『政労使秘団――組織と人脈』汐文社、1983年、189頁
- ↑ 竹内洋『革新幻想の戦後史』中央公論新社、2011年