社会思想研究会

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社会思想研究会(しゃかいしそうけんきゅうかい)は、河合栄治郎の門下生が結成した思想研究団体。略称は社思研(しゃしけん)。

概要[編集]

東京帝国大学経済学部教授の河合栄治郎満州事変五・一五事件二・二六事件が起こる中、軍国主義、ファシズムを公然と批判し、1938年10月に4著作が発売禁止処分にされたことを契機として、1939年1月に休職処分に付せられ(平賀粛学)、1939年2月に出版法第17条違反で起訴された。この頃から河合とその門下生が2週間に1回ずつ河合邸で開催していた「青日会」と称する会合が社会思想会の端緒となった[1]。河合は青日会の創立時に青年英国党ディズレーリ保守党内に結成したグループ)にならって青年日本党をつくっていきたいと発言した[2]。青日会の主要メンバーは高田正斎藤暹梶村敏樹長尾春雄塩尻公明三森良二郎木村健康土屋清関嘉彦石上良平外山茂二宮敏夫水野勲猪木正道音田正巳[1]。1941年2月に河合門下の山田文雄とその門下生および青日会の一部会員(木村健康、土屋清、関嘉彦、猪木正道)が参加して『日本戦時経済論』(経済問題研究会著、太平洋協会調査部編)を中央公論社から刊行した[1]。1944年1月23日に朝鮮の鉱山王と言われた実業家小林妥郎の資金援助を受けて「河合研究所」を設立し、河合が所長、木村健康がドイツ部長、土屋清がイギリス部長、北ボルネオに従軍中の関嘉彦が東南アジア部長にそれぞれ就任した。しかし2月15日に河合が急逝し、研究所は自然に解散した[1]

敗戦後、復員した関嘉彦が河合栄治郎の思想の研究普及を目的とする団体の設立を計画し、山田文雄、木村健康、土屋清、石上良平、猪木正道の賛成を得た。関は河合が「日本の敗戦を見透し、戦後の日本の再建のプランを研究するため」に河合研究所を創設していたことを知らされ、自身の計画は河合研究所の復活に外ならなかったと述べている[3]。1946年10月15日に山田文雄、長尾春雄、木村健康、土屋清、石上良平、関嘉彦、猪木正道の7人が社会思想研究会の創立趣意書を作成し[1]、河合ゼミ卒業生や河合の友人に発送して参加を求めた[3]。同年11月1日に東京・日比谷の市政会館7階の鶴見事務所で社会思想研究会の創立総会が開催され、河合ゼミ卒業生や鮎沢巌板垣與一矢部貞治鶴見祐輔田村幸策ら約20人が出席した[1][3]。理事には発起人の7人、事務局長には理事と兼任で関嘉彦、顧問には海野晋吉蠟山政道河合国子(河合栄治郎の妻)、山田節男が就任した[1]

創立趣意書では「日本再建の原理たるべき社会哲学を徹底的に検討し、社会改革の具体案たる社会政策を科学的に研究し、之を江湖に普及せしめて聊かなりとも日本復興に資せんとする」「社会の成員の凡ての人格の成長を保証する如き日本国家を再建し、以ってその理念を世界に及ぼさんとする」とした[4]。規約では「本会ハ日本ノ国家的再建社会的改革ニ必要ナル原理及ビ政策ノ研究並ビニ普及ヲ行ウヲ目的トス」とした[1]。1947年春に会員を広く募集するため、綱領を作成した[1]。関嘉彦が起草した綱領は「①人間性の尊厳重視、人格の完成、②個人の自由の、団結の自由のような社会的自由を含めた最大限の伸張、③社会主義社会の実現、④民主政治の擁護、社会主義の議会政治を通じた実現、⑤世界平和の維持、国家主権の制限と国際連合の強化」を主張し[5]、河合の理想主義的思想を研究・普及していくことを表明した[4]。この綱領は松本重治によって英訳され、イギリスフェビアン協会労働党に送られた[1]。日本のフェビアン協会を任じ、日本社会党に思想を普及することを目的としたが、党の付属機関になるつもりはなかった[3]

1947年12月に活動資金を捻出するために株式会社社会思想研究会出版部を設立し、1962年に社会思想研究会から独立して株式会社社会思想社に改称した。1948年に機関誌『社会思想研究会月報』を創刊、1950年に『社会思想研究』に改題した。1948年11月発行の『社会思想研究会月報』第3号に猪木正道が「戦闘的民主社会主義」という題で巻頭言を書いた。この頃から会の主張を民主社会主義と呼ぶようになり[3]、民主社会主義の研究・普及団体として注目された[4]。民主的労働運動と連動して活動し、中心メンバーは1960年1月の民主社会党(のちの民社党)の結成に協力した[6]。民社党と同時に結成された民主社会主義研究会議(民社研)の準備委員のほぼ全員が社思研の会員であり、1960年4月に社思研は団体会員として民社研に加入した[1]。大半の会員が民社党を支持したが、社会党支持、民社党反対の会員も存在した[2]。民社研設立後は活動が停滞し、1974年に解散した[7]。社思研や民社研の流れを汲む団体には、政策研究フォーラム国家基本問題研究所河合栄治郎研究会がある[8]

会員[編集]

社思研の第1世代には河合栄治郎門下の土屋清関嘉彦猪木正道などがいる[9]。土屋や関が自宅で開いていた読書会形式のゼミの卒業生が社思研の第2世代にあたる[9]。土屋ゼミの卒業生には田久保忠衛佐藤寛行吉田忠雄岡野加穂留三宅正也富山功などがいる。京都大学で猪木正道の指導を受けた会員には高坂正堯勝田吉太郎木村汎西原正などがいる[10]。「佐藤寛行・冨山功ゼミ」の卒業生が社思研の第3世代にあたる。第3世代には梅澤昇平髙池勝彦中村信一郎住田良能などがいる[11]。河合門下ではない会員には慶應義塾大学気賀健三中村菊男のグループ、東京大学碧海純一石川吉右衛門中央大学武藤光朗高田保馬門下の北野熊喜男木下和夫内海洋一向井利昌早稲田大学服部辨之助などがいた[2][12]。関西の会員には猪木正道や高田保馬の門下生たちの他、音田正巳塩尻公明山崎宗太郎伊原吉之助柿木健一郎片上明などがいた[10]。その他、井伊玄太郎江上照彦芳賀綏湯浅博などが会員だった。森戸辰男笠信太郎は顧問を務めた。遠藤欣之助は事務局員を務めた。

所在地[編集]

『社会思想研究』第2巻第1号(1950年1月)によると、東京都千代田区内幸町2-3幸ビル。『社会思想』第24巻第3号(1972年3月)によると、東京都文京区本郷1-25-21弓町東野ビル。

出典[編集]

  1. a b c d e f g h i j k 社会思想研究会編『社会思想研究会の歩み――唯一筋の路』社会思想社、1962年
  2. a b c 土屋清関嘉彦佐藤寛行「社会思想研究会の思い出――唯一筋の道・民主社会主義」『改革者』第199号、1976年10月
  3. a b c d e 関嘉彦「回想録――私と民主社会主義(第五回)社会思想研究会の創設」『改革者』第38巻第5号(通巻442号)、1997年5月
  4. a b c 松井慎一郎『河合栄治郎――戦闘的自由主義者の真実』中公新書、2009年、344-345頁
  5. 富田武「名著再読 猪木正道著『ロシア革命史 社会思想史的研究』」『成蹊法学』第81号、2014年
  6. 清滝仁志「教養と社会改革――社会思想家・河合榮治郎(1)」『駒澤大學法學部研究紀要』第68号、2010年3月
  7. 松井慎一郎『河合栄治郎――戦闘的自由主義者の真実』中公新書、2009年、346頁
  8. 【湯浅博 全体主義と闘った思想家】独立不羈の男・河合栄治郎(72)後継者編(3-3)(4/4ページ) 産経ニュース、2016年12月10日
  9. a b 【湯浅博 全体主義と闘った思想家】独立不羈の男・河合栄治郎(7)沖縄返還前のころ(2/5ページ) 産経ニュース、2015年11月21日
  10. a b 【湯浅博 全体主義と闘った思想家】独立不羈の男・河合栄治郎(72)後継者編(3-3)(1/4ページ) 産経ニュース、2016年12月10日
  11. 【湯浅博 全体主義と闘った思想家】独立不羈の男・河合栄治郎(7)沖縄返還前のころ(1/5ページ) 産経ニュース、2015年11月21日
  12. 音田正巳「想い出は昨日のごとくに」『社会思想研究』第24巻第3号、1972年3月

関連文献[編集]

  • 社会思想社編『社会思想社小史――20年の歩み』社会思想社、1967年
  • 土屋清『エコノミスト五十年――一言論人の足あと』山手書房、1980年
  • 粕谷一希『河合栄治郎――闘う自由主義者とその系譜』日本経済新聞社、1983年
  • 関嘉彦『私と民主社会主義――天命のままに八十余年』日本図書刊行会、1998年
  • 猪木正道『私の二十世紀――猪木正道回顧録』世界思想社、2000年
  • 田久保忠衛『激流世界を生きて――わが師 わが友 わが後輩』並木書房、2007年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]