丹羽文雄
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丹羽文雄(にわ ふみお、1904年11月22日 - 2005年4月20日)は、日本の文豪。
人物[編集]
三重県四日市市の浄土真宗の寺に生まれる。実母と祖父が姦通する環境に育ち、1929年早稲田大学文学部国文科卒業。郷里で僧職につく。1932年に『文藝春秋』に書いた「鮎」が注目され、僧職を辞して状況、専業作家となる。日中戦争では「ペン部隊」として中国や東南アジアに出張した。
戦後1947年「厭がらせの年齢」を発表、長編の通俗小説的な作風で舟橋聖一、石川達三とともに「風俗小説」派と呼ばれ、1950年に中村光夫の『風俗小説論』で批判される。1949年の芥川賞の復活から選考委員を務め、1984年まで35年間務めた。
1953年、長編『蛇と鳩』で野間文芸賞を受賞する。自身が選考委員だったため辞退したが、この後も選考委員の受賞はあることだからと慰留され、受けた。1960年、長編『顔』で毎日芸術賞を受賞。1966年『一路』で読売文学賞を受賞、74年菊池寛賞、77年文化勲章を受章した。
多くの読まれる小説を書いたため裕福で、その資金をもとに後進のための同人誌『文学者』を主宰し、瀬戸内晴美、吉村昭、津村節子などが集い、「丹羽教室」と呼ばれた。
1956年から日本文藝家協会理事長、会長を兼任し、72年まで会長を務め、文壇の重鎮であった。晩年は長く認知症を患い娘の本田桂子の介護を受けたが、桂子は丹羽に先立って2004年に死去。その一年後に百歳の長寿をもって死去した。