名古屋城

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名古屋城(なごやじょう)とは、現在の愛知県名古屋市中区本丸1-1に存在する日本である。江戸時代には徳川御三家筆頭の尾張徳川氏居城となる。名城として知られる。国の特別史跡に指定されている。名古屋市のシンボルである。

概要[編集]

前身[編集]

名古屋は濃尾平野を押さえる要衝の地であり、この地に最初に城を築いたのは大永2年(1522年)であり、築城者は駿河今川氏の当主で今川義元の父である今川氏親であったとされている。氏親は息子とされる氏豊(義元の弟か)を城主とした。当時は現在の名古屋城2の丸付近に築かれたと見られている。

しかし氏親の死後の天文元年(1532年)、氏豊は織田信秀によって城を奪われて没落した。天文3年5月12日1534年6月23日)に信秀の嫡男である織田信長がこの城で生まれている。しかしその翌年、信秀は居城を古渡城に移した。信秀の死後、跡を継いだ信長も居城を清須城に移し、信長の叔父の織田信光が居城としたが信光はやがて不慮の死を遂げ、名古屋の城は弘治3年(1557年)以降は廃城となった。なお、当時は那古屋城と書かれていた。現在は城跡の2の丸に「那古屋城址」の碑が建立されている。

江戸時代[編集]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い徳川家康政権を掌握すると、家康は東西交通の要衝である尾張の押さえを重視し、豊臣氏恩顧の大名である福島正則安芸広島藩に移し、代わって家康の4男で徳川秀忠の同母弟である松平忠吉を清洲城主として入部させた。しかし、忠吉は慶長12年(1607年)に28歳の若さで死去し、嗣子がいなかったため改易となり、改めて家康の9男で秀忠・忠吉の異母弟である徳川義直が新たな清須藩主となる。だが、清須は水害が多い低温の地であったため、家臣の山下氏勝の提案により家康は名古屋に大規模な築城を開始することにした。当時、家康は政権を掌握していたとはいえ、豊臣秀頼を当主とする豊臣氏は健在であり、また西国には多数の豊臣氏恩顧の大名や反徳川氏の外様大名も健在であったため、家康は西国の押さえとして名古屋城の規模を特に大きくした堅固な平城を築くように命令したのである。

慶長14年(1609年1月、家康は義直を伴って自ら城地を検分し、11月には縄張りを行ない、慶長15年(1610年2月から工事を開始した。工事に参加したのは加賀藩前田利常熊本藩加藤清正福岡藩黒田長政ら豊臣恩顧の大名ばかりであり、家康は豊臣恩顧の財政を消費させるためにこの工事に参加させたという。石垣の石は石崎山・篠島・幡豆から紀伊讃岐などから集められた。天守閣は加藤清正が工事を担当したとされているが、実際に担当したのは天守閣の石垣工事のみだという。城の中心はほぼ正方形の本丸で、北西に御深井丸、南西に西の丸、南東に2の丸を配置し、東と南の外郭として3の丸を配置した。本丸の北西隅に5層の天守閣、その南に小天守が設置され、この両方の天守は石垣上の通路橋台で結ばれ、他の3隅には2層3階の隅櫓が配され、さらにこれを取り巻くように多聞櫓が配置されているという堅固な構えがされていた。本丸の中心にあった本丸御殿は江戸時代初期を代表する華麗な書院造の御殿で、徳川御三家筆頭の尾張藩の威容を示すものであり、さらに御殿の各部屋には狩野探幽ら当時を代表する画家の筆による奥障子などがあった。こうして名古屋城が完成すると義直は清須から名古屋に移った。

江戸時代中期の宝永7年(1710年)、宝暦2年(1752年)に名古屋城の大修築が行なわれ、後者の大修築の際には天守閣の土瓦が銅瓦に葺き替えられたという。

明治時代から昭和時代[編集]

明治時代になると、名古屋城は日本陸軍の管轄下に置かれ、鎮台が設置された。明治26年(1893年)、本丸と御深井丸一帯は名古屋離宮と定められた。

昭和5年(1930年)に名古屋城は名古屋市の所有とされ、一般に公開されるようになる。さらに5層の大天守、2層の小天守をはじめ、正門や御殿など24棟の建物は国宝に指定された。昭和7年(1932年)に城内全域が史跡に指定される。太平洋戦争開戦の翌年昭和17年(1942年)には本丸御殿障壁画の一部が国宝に指定された。

1945年5月14日アメリカ合衆国陸軍のアメリカ合衆国陸軍ボーイングB29爆撃機による空襲を受けて名古屋城は3つの隅櫓、表2の門、そしてあらかじめ空襲に備えて疎開させてあった障壁画などを除いてほとんどが焼失し、名古屋城は創建当初のままの姿を失ってしまった。この時の名古屋城が炎上する写真が残されている。まさしく落城にふさわしい写真である。戦後、名古屋城の復元が計画され、昭和34年(1959年)に6億円余りの巨費を投じて復元された。この際に天守閣の金の鯱も復元された。

現在[編集]

現在、名古屋城は本丸・西の丸・御深井丸の全域、2の丸、3の丸の外周が名古屋城跡として国の特別史跡に指定されている。また3つの隅櫓、表2の門、東2の門、本丸御殿の障壁画や天井板絵などが国の重要文化財に指定され、2の丸庭園が国の名勝に指定されている。

重要文化財[編集]

  • 西南隅櫓(せいなんすみやぐら)。
  • 東南隅櫓(とうなんすみやぐら)。
  • 西北隅櫓(せいほくすみやぐら)。
  • 表二ノ門(おもてにのもん)。
  • 本丸御殿障壁画(ほんまるごてんしょうへきが)。

天守閣[編集]

大天守、小天守からなり、西側の堀底から土台までの石垣の高さが64尺2寸(およそ19.45メートル)、建物の高さは111尺(およそ33.5メートル)ある。屋根は5層で内部は6階。石垣の中に穴蔵の1階が別にある。

天守閣の工事は江戸時代初期の作庭家・建築家として著名な小堀政一こと小堀遠州が作事奉行として担当した。小堀は他の8人の奉行と共に工事にあたり、石垣組みの工事がほぼ完了した慶長15年(1610年)から着工し、慶長17年(1612年)末までにほぼ完成させた。この工事には家康自らも参加して督励したという。小天守を通らなくては大天守にいけない作りにされており、石垣の上を橋台という通路で結ばれていたという。また橋台には剣塀という仕掛けがなされて厳重な防備が成されていた。

2の丸庭園[編集]

元和3年(1617年)、尾張藩主の常御殿として完成した2の丸庭園として作庭された。この庭の形式は枯山水回遊式庭園であるが、他の庭園と異なり、万一にも尾張藩主が敵に襲撃された場合に藩主の避難場所として作庭されたという。実際、渓は深く、巨岩を積んで山としており、老木や巨木を故意に生い茂させて通路を隠す仕組みになっていた。

現在の庭園はこの2の丸庭園の一部であった北庭と、明治時代以降に作庭された南庭に分かれ、面積5900平方メートル、北庭は変化のある回遊路、巨岩を用いた石組みで生い茂る老木など、江戸時代初期の作庭当時の面影を残している。数少ない城郭庭園の代表的遺構として国の名勝に指定されている。

本丸にある古木[編集]

名古屋城の正門を入ったところに高さおよそ18メートル、根元の周りおよそ9.22メートル、目通り幹囲およそ7.15メートルあり、樹齢はおよそ620年である。この茅の木は名古屋城の築城以前からあったと見られており、名古屋城築城の際に徳川家康がこの木の下で築城指揮をとったという古記録もある。昭和7年(1932年)に国の天然記念物に指定されている。

他に名古屋城内にはイスノキ(本丸の東)、クロマツ(西の丸堤防上)、テンダイウヤク(2の丸庭園の中心池の中の島)、ナツグミ(東掘の北)、彼岸桜(東土手の上)、マルバチシャノキ(2の丸庭園入口)、ヤマガキ(西北隅櫓の南)など多数の古木・名木が存在する。

名古屋市のシンボル「金鯱[編集]

名古屋城を代表するのが大天守閣の上に輝く一対の金鯱である。この金鯱は木の原型に唐銅の鯱型を覆い、外側を金で張ったものである。雌は高さ8尺1寸5分(およそ2.46メートル)、長さ4寸1尺5分(およそ1.25メートル)、鱗の金箔は直径7寸5分(およそ2.27センチ)から2寸5分(およそ7.57センチ)であり、金箔110枚が使われている。雄は高さ7尺7寸5分(およそ2.34メートル)、長さ6寸3尺5分(およそ1.92メートル)、鱗の金箔は直径7寸(およそ21.2センチ)から2寸(およそ6センチ)であり、金箔90枚が使われている。費用は小判で1万7975両という巨額を要したという。だが、尾張藩は江戸時代中期から藩財政が悪化したため、そのため財政を補填するために金鯱はその的となり、享保11年(1726年)に金鯱修復の名目で粗悪な金鯱に改悪された。だが、それでも尾張藩の財政難は収まるどころかさらに悪化し、江戸時代後期の文政年間(1818年 - 1830年)にはさらに金箔が薄い鯱に代えられた。しかしこれは余りに粗悪だったとされ、尾張藩62万石の威容に関わるとして弘化3年(1846年)に少々金箔を増やした鯱に変更された。

また、この金鯱には多くの不届者にも狙われている。宝暦年間(1751年 - 1764年)には柿木金助という盗賊が夜中に凧に乗って鯱2枚を剥ぎ取ったというエピソードがある。明治4年(1871年)2月には名古屋藩庁が無用の長物として金鯱を下ろしたところ、鱗3枚が名古屋鎮台の兵士によって盗まれてしまった。その後、金鯱は博物館に陳列されていたが、明治9年(1876年)にも盗難騒ぎがあったため、元の天守閣上に設置しておいたほうがまだ良いとして戻されることになった。

しかし昭和12年(1937年1月6日にも盗難騒ぎが起きている。この時の犯人は測量調査の足場を使って夜間に金鱗110枚中58枚を盗んだとされ、その後に逮捕された。動機は金銭目的とされるが、この事件により当時の名古屋市長は引責辞任を余儀なくされている。

そして昭和20年(1945年)の米軍大空襲により名古屋城が焼け落ちると、金鯱も城と運命を共にした。この時、焼け落ちた鯱の残骸は後に茶釜2個に鋳直され、現在はそのうちの1つが2の丸茶亭で見れるようになっている。

現在の金鯱は昭和34年(1959年)に天守閣再建の際に新造され、費用はおよそ4800万円、18金で88キロを必要としたという。

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関連項目 続日本100名城