外様大名
外様大名(とざまだいみょう)とは、江戸時代に江戸幕府が征夷大将軍との関係を中心にして分類する大名家の家格である。
概要[編集]
一般的には慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い以降、徳川家康が政権を掌握した後に徳川氏に服属した大名を指すが、徳川家や譜代大名家一族から養子を貰い、幕府への願い出が許可されて子孫が譜代大名格を得たいわゆる「願譜代」もいる。
外様大名の多くは、織田信長の織田政権や豊臣秀吉の豊臣政権によって取り立てられた大名家、あるいは織田政権以前の室町幕府の大名家や鎌倉幕府の守護家といった旧族系の大名家が多く、徳川氏とは織田政権や豊臣政権においては力の差こそあれ、同格の大名家である者が大半を占めている。
江戸幕府は外様大名を特に警戒し、所領や官位などにおいては優遇したが、藤堂家を除いて、多くは関東や東海、畿内などの要地には配置せず、中国地方や四国地方、九州地方や東北地方などの遠隔地に配置した。また、江戸城での将軍拝謁時の伺候席は将軍表から最も遠い大広間席が割り当てられ、幕政にはほとんど参加する資格を与えなかった。ただし次第に譜代大名を中心とした幕政が行き詰まりを見せだした江戸時代中期頃から安政の改革以後になると、外様大名でも有能な人材であれば、あるいは幕府に精力的に公役を果たして貢献していたりした場合などは幕政に参加する資格を与えられていた。
外様大名は譜代大名と比較して移封はあまり行なわれなかったので、所領の支配が安定していた場合が多い。薩摩藩や長州藩や肥前藩など後に討幕を果たした諸藩は、江戸時代を通じて1度も移封されることが無かったので、藩財政は厳しかったが藩政自体は安定していた。
また、四賢侯の一つ宇和島藩では政宗が選抜した米沢以来の譜代が「上士」、言葉が異なるため領民との円滑なコミュニケーションも兼ね、南予の農民や町人の次三男で有能な者を士分にし「下士」とした。従って「下士」は差別される対象ではなく、自分の才能を評価され武士に取り立てられた誇りがあった。その点が西国の藩では異例である。
他方、土佐藩では、関ヶ原の戦いまで優遇されていた旧主君の長宗我部家に近い武士団を「下士」として幕末まで冷遇し、下士団に尊皇思想が広まって倒幕のきっかけを作った。