湯築城
湯築城(ゆづきじょう)とは、現在の愛媛県松山市道後公園内にかつて存在した日本の城である。
概要[編集]
14世紀前半の後醍醐天皇の建武の新政が行なわれていた頃、当地の豪族であった河野通盛が築城したと言われている。河野氏は後に伊予国の守護大名として威を奮い、同国を支配する拠点として湯築城を用いた。この城は遺構などの調査から、東側に追手門(正門)が、西側が搦手(裏門)になっており、城の周囲には2重の堀が張り巡らされていたと見られている。
しかし河野氏はやがて同族で家督をめぐって争って衰退し、安土桃山時代の天正13年(1585年)には豊臣秀吉の四国征伐を受ける。当時の河野家当主・河野通直は徹底抗戦するがもとより勝ち目は無く、毛利氏との縁戚関係を頼って隆景に降伏し、ここに河野氏は滅亡した。以後、四国制圧の功績が大きかった隆景は秀吉より伊予を賜り、隆景は湯築城を居城としたが、隆景はすぐに九州に移され、秀吉から新たに領主に任命された福島正則が居城とするも、天正16年(1588年)に完全に廃城とされてしまった。ただし、廃城と言ってもその際の破却は不完全で、残された城の木材や石垣は江戸時代に加藤嘉明が伊予松山藩主として伊予松山城を築城する際に転用したといわれている。うえら
江戸時代の湯築の地は竹林が生い茂るままに放置されていたが、明治時代になって当地は道後公園として整備され、桜や桃が植えられて市民の憩いの場に変貌する。昭和22年(1947年)には南側に動物園が設置されたが、その移転に伴って埋蔵文化財調査が行なわれ、平成14年(2002年)4月から中世城郭史跡公園として一新され、同年9月に国の史跡に指定された。またこれに伴い、当時の武家屋敷を再現した建物が資料館として建てられている。
本丸跡は北側の丘と見られ、享禄4年(1531年)に造られた道後温泉の湯釜があり、愛媛県の文化財に指定されている。