加藤清正

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加藤 清正(かとう きよまさ、永禄5年6月24日1562年7月25日) - 慶長16年6月24日1611年8月2日))は戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名肥後熊本藩の初代藩主

生涯[編集]

永禄5年、土豪加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の中村公園駅付近)で出生した。豊臣秀吉の子世代、徳川家康徳川秀忠の間の世代である。幼少期に父と死別してしまったが、清正の母親が木下藤吉郎(羽柴秀吉、豊臣秀吉)の大伯母(生母大政所の伯母)にあたることから藤吉郎子飼いの武将となった。天正4年、羽柴秀吉の居城長浜城付近に170石の領地を賜る。

天正11年の賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げ、賤ヶ岳の七本槍の一人として3000石を加増された。天正13年、従五位下・主計頭に叙任される。秀吉の九州征伐にも出陣し、佐々成政が所領を没収されると天正15年にその旧領を与えられ、25万石を得た。

文禄慶長の役には李氏朝鮮と戦火を交え、朝鮮王の王子2人(順和君臨海君)を捕らえる活躍を見せた。しかし現地で石田三成と不和になり、慶長元年、日本に呼び戻された。同年の畿内の大地震に際して伏見城に赴き、秀吉の勘気を解いた。このことから地震加藤と渾名されるようになった。

関が原の戦いでは同じ大政所係累の福島正則と共に徳川家康を中心とする東軍に属し、熊本から西海を攻めた。その功から加増を受け、肥後全土に52万石を与えられ、ここに熊本藩が成立した。慶長10年には従五位上、侍従、肥後守に叙任されている。その後の清正は秀吉の旧恩によって豊臣秀頼の保護に尽力する一方、慶長15年の名護屋城の普請では率先して本丸の大工事を引き受けている。慶長16年、熊本にて死去。墓所は熊本の建一寺。熊本藩は次男の忠広が継承した。

築城、治水、干拓の名手として知られていた。子孫は孫・加藤光広の代で改易され、他の大名家とは違い武家としての存続も許されなかった。子孫は商人として生き残り、大きく分けて2つの流れに分流した。一方は明治時代に断絶したものの、もう一方の家系が清正の血を現代に伝えている。

別名[編集]

  • 虎之助
  • 浄光院
  • 日乗
  • 官位は従五位下→従五位上
  • 主計頭
  • 侍従
  • 百官名は肥後守