長篠城
長篠城(ながしのじょう)とは、現在の愛知県新城市長篠字市場22-1にかつて存在した日本の城である。天正3年(1575年)に長篠の戦いが行なわれた城として有名である。国の史跡である。
概要[編集]
永正5年(1508年)に今川氏親の家臣・菅沼定通の子・菅沼元就が築城した。この城は三角形の地域の二辺が断崖で川に面する自然の要害であった。元亀2年(1571年)、菅沼氏第4代の城主である菅沼正貞は甲斐の武田信玄の攻撃を受けて降伏する。元亀4年(1573年)春に信玄が西上作戦の際に重病に倒れた際、長篠城に入城して床についている。4月に信玄が死去すると三河の徳川家康が反撃を開始し、7月に家康は長篠城を攻略して重臣の松平家忠と奥平景忠を城代として置いたが、天正3年(1575年)に家康の娘婿である奥平信昌が城主に任命される。この年の4月に信玄の跡を継いだ武田勝頼が1万5000の大軍を率いて長篠城を包囲する。しかし長篠城は堅城で信昌らは武田軍の攻撃を耐えしのぎ、5月21日に織田信長・徳川家康連合軍が長篠城の後詰に設楽原(現在の新城市竹広)に駆けつけ、世に名高い長篠の戦いがここに始まる。この戦いで戦国最強で知られた武田軍は壊滅し、山県昌景や馬場信春、内藤昌豊ら多くの将兵を失って壊滅した。奥平信昌は戦功によって居城を井ノ口と呼ばれた新城城に移し、長篠城は廃城となった。
城跡は東西354メートル、南北396メートル、本丸跡は東西72メートル、南北45メートル、土塁とその外に堀があり、他に弾正郭、野牛郭、巴城郭、瓢郭などがあるなど、非常に複雑な構成をしていたことがうかがえ、武田の大軍を防ぎきったのがよくわかる構造である。城跡は国の史跡に指定された。
長篠城史跡保存館[編集]
長篠城本丸入口にある保存館で、文献や火縄銃など長篠合戦に関する関係資料、およそ200点が展示されている。
アクセス[編集]
- 鉄道
- 道路