徳川秀忠
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徳川 秀忠(とくがわ ひでただ、1579年5月2日 - 1632年3月14日)は、徳川幕府第2代征夷大将軍。
生涯[編集]
1579年5月2日(天正7年4月7日)遠江国浜松で誕生する。徳川家康の三男で生母は西郷氏。誕生時は長松だったが、竹千代と改名し、長兄・信康亡き後の事実上の後継とされる。10歳の時、豊臣秀吉より、秀忠の名前を授けられる。
関ヶ原の戦いでは中山道を進む徳川別働隊を率いて、本隊合流を目指した。その途中に真田昌幸に上田城を明け渡すよう勧告した。しかし降伏すると思っていた昌幸が東軍を挑発する手紙を送ってきた。これに対し秀忠は無視して大阪方面へ向かうつもりであったが、重臣たちが反対したために真田と第二次上田合戦を行う羽目になった。このため、結果として本隊合流に遅参。この史実で「武将としての評価」は小さめに見られる。
1605年、征夷大将軍に任じられる。武術では次兄・秀康に劣るが、政治・諸将調整能力での評価で将軍後継に任じられた。
以後、将軍として江戸城で政治を行うが、1616年に父の徳川家康が亡くなるまで、駿府居住の大御所である家康との二元政治となっていた。
1615年、秀忠は徳川幕府の基本法令である武家諸法度・禁中並公家諸法度・諸宗寺院法度の公布を発表した。伏見城に諸大名を集め、金地院崇伝に武家諸法度13か条を読ませ、平伏する諸大名に聞かせた。
1623年、家光に将軍職を譲り、大御所として父と同じく江戸城西の丸で二元政治を行った。
1632年3月14日(寛永9年1月24日)に薨去した。享年54歳。同年3月30日(寛永9年2月10日)贈正一位。
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- 見取り図でわかる日本の城 - 青春出版社
日本史における歴代将軍一覧 |