岩村城
岩村城(いわむらじょう)とは、現在の岐阜県恵那市岩村町城山にかつて存在した日本の城である。
概要[編集]
旧岩村町の標高721メートルの城山にあった山城である。平安時代末期の文治元年(1185年)に源頼朝の功臣のひとりである加藤景廉が美濃国遠山庄の地頭に任命された際に築城した。以後、遠山氏の歴代当主が居城とする。
岩村は東美濃における交通と軍事の要衝であったため、戦国時代には武田信玄と織田信長・徳川家康連合の攻防が繰り返された。元亀3年(1572年)に当時の遠山氏の当主である遠山景任が病死したため、織田信長は自らの5男である御坊丸(後の織田信房)を養子に入れた。しかし武田信玄と一部の遠山氏家臣はこれを認めず、信玄が送り出した秋山虎泰を新たな城主に迎え、御坊丸は甲斐国に連行された。信玄が亡くなると、信長は岩村城を取り戻すために東美濃に攻め入るが、武田勝頼の前に敗北する。しかし天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田勝頼が信長・家康連合に大敗すると甲斐武田氏は急速に衰退し、信長は嫡子・信忠を送って秋山の激しい抵抗に遭いながらも遂に岩村城を奪い返した。この際、信長は武田に協力した岩村城の将兵を秋山や自らの叔母・おつやの方もろとも虐殺した。
信長はその後、家臣の河尻秀隆を城主に任命する。この頃に岩村城は城地を拡大し、城郭は完成したという。天正10年(1582年)の武田征伐で甲斐武田氏が滅亡すると、信長は河尻を甲斐国主に任命し、自らが寵愛する小姓の森蘭丸を城主に任命した。しかし蘭丸は同年の本能寺の変で信長と共に死去する。新たな城主には蘭丸の兄・長可が就任するが、長可は天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで戦死し、末弟の忠政が城主に就任する。その後、田丸氏が就任するが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、その翌年に政権を掌握した徳川家康により、三河国岡崎城の備えとして譜代大名の松平家乗(大給松平氏)を2万石を与えて入封した。
その後、藩主家は丹羽氏、大給松平氏と変転するが、最終的に大給松平氏が3万石の藩主として明治維新を迎えた。
この城は別名を霧ヶ城というが、これは敵軍が来襲した際に山頂の井戸に蛇骨を投げ入れると、たちまち白い霧が全山を覆って敵軍を悩ませたという言い伝えによるもので、この井戸を霧ヶ井戸と呼んでいる。山頂からは町並みを眼下に、遠くに御岳・木曽駒ヶ岳、恵那山などを一望することができる。また、中世から近世にわたって続いた城として重要視されており、岐阜県の史跡に指定されている。