姫路城
姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県姫路市にある城。世界文化遺産。国宝。日本城郭の建築技術が最盛期に達したときの建造物で後期望楼型と呼ばれる建築様式。日本国内に現存する城としては最大の規模を誇る。天守閣群、渡り櫓の計8棟が国宝。国指定重要文化財も含めると74棟の史跡がある。
概要[編集]
西国大名と大阪城を分断する目的で改修された。北西にある男山は姫路城とほぼ同じ標高で、ここから大砲で砲撃されると天守閣が破壊される。
歴史[編集]
700年程前の室町時代に赤松貞則が現在の姫路城のある山(姫山)に砦を築いたのが始まりだとされているが、諸説あり。
その後の時代、当時の城主だった黒田官兵衛が豊臣秀吉へ差し出し秀吉が三重の城に作り替えた。当時、姫路は織田と毛利の勢力権の狭間にあり毛利方に対して有利を取るために行ったようだ。
関ケ原の戦いで東軍が勝利しても巨大な石高を持ち、文禄・慶長の役で実戦経験豊富な西国大名の脅威は変わらなかった。1601年、池田輝政が52万石で姫路城に入城し、現在の規模に改修した。工事は延べ8年かけて行われたようである。池田氏が外様大名であったのにも関わらず52万石もの大規模な大名であったのは将軍の娘婿であったためである。しかし、池田氏は三代で姫路の地を去りその後も本田や榊原、松平(2家)、酒井が入った。石高はそこまで大きくなくせいぜい15万石。(幕末では18万石)西国大名抑えの城だったにもかかわらず石高が低かったのは播磨が豊かな土地であり容易に経済力を高めることができ姫路城を拠点として江戸幕府へ謀反を起こす可能性があったためである。(そのために姫路藩にはある程度信頼のある大名を配置していた)これだけの大名が入った藩は全国でも有数で姫路藩には初めから幕末までに6家、31人が藩主を勤めた。これは全国最多である。
建造物[編集]
西の丸[編集]
本田忠政が入城した際は石高は15万石であったが千姫と結婚していたことにより10万石が化粧料として贈られ25万石となった。この10万石を使い姫路城の西側に新たな「西の丸」という場所が造られた。この場所は二人の屋敷として使われていたが、この屋敷は酒井家の時代に酒井の江戸の屋敷が火事になり建材が不足していたため材料に解体されてしまった。現在は広大な敷地が残るだけであるが千姫が過ごした化粧櫓と呼ばれる櫓が残っている。
天守群[編集]
連立式天守と呼ばれる様式。この形式を採用している城は姫路城以外では松山城のみ。大天守と小天守3つをそれぞれ渡り廊下で繋げ合わせている。四方八方共に攻守に優れた造りであるが、しかし実際にこのタイプの城が実戦で用いられたことはなく確証はない。
- 大天守
組み立てるのに数年掛かった。ただ、骨組みは3ヶ月で完成していた模様。日本に現存する最大の木造建築物である。五層七階になっており五階は六階の屋根に隠れるような形で外からは認識されにくいように造られている。総重量は5 - 6000トン(そのうち漆喰は3 - 4000トン程度)6階には何故か神社がある。昭和になってからこの場所に移されてきたらしいが何故移動させられたのかは不明。
- 乾小天守
最大の小天守。一時期は秀吉時代のものではないかと言われていた。(違ったらしい)他の小天守とは違い装飾に金箔や灯火窓が使われておりまるで戦闘用とは思えない豪華な造りになっている。
堀[編集]
非常に変わった堀。通常の堀はそれぞれの堀が繋がっていないが姫路城の場合、全て繋がっていた。左回りになっているが江戸城は右回り。江戸城の堀は姫路城のものを参考にして造られたと言われている。アンモナイトのような形と思えばわかりやすい。国立西洋美術館でル・コルビュジエが採用したように外側を広げていけば土地がある限り無限に伸ばせるわけである。