箕輪城
箕輪城(みのわじょう)とは、現在の群馬県群馬郡箕郷町東明屋にかつて存在した日本の城であり、現在は国の史跡に指定されている。
概要[編集]
西明屋の街の北、およそ1キロの地点にかつて位置した白川左岸の段丘上に存在した平山城である。
戦国時代の大永年間(1521年 - 1528年)に長野信業によって築城されたという。上野長野氏は在原業平の末裔であり、当地を支配して土着化していた豪族である。信業の跡を継いだ長野業正(業政)は武田信玄や北条氏康すら恐怖した名将として知られ、自らの12人を数える娘を周辺の有力武将に嫁がせて上野一帯に大きな勢力を誇った。業正は上杉憲政や上杉謙信の支援を得て甲斐武田氏や後北条氏ら相手に奮戦したが、永禄4年(1561年)に業正が死去すると、武田信玄は強敵の死去を喜んですぐに上野に侵攻を開始する。永禄9年(1566年)9月、武田信玄は数万の大軍を率いて箕輪城を攻めた。この時の箕輪城主はわずか18歳の業正の遺児・業盛であり、彼は堅城をもってよく守備したが、遂に箕輪城は落城して業盛は自殺した。また、業盛の未亡人は武田信玄の側室となるために甲斐に連行される際、自殺して上野長野氏は完全に滅亡した。
信玄は新たな箕輪城主に、重臣で武田四天王のひとりに数えられる内藤昌豊(昌秀)を入れて上野支配を任せた。しかし昌豊は天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に大敗した際に戦死した。以後、甲斐武田氏は急速に衰退し、天正10年(1582年)の武田征伐で武田勝頼が自殺すると信長の家臣・滝川一益の支配下に入り、その滝川も同年の本能寺の変で失領したため、北条氏直の支配下に入る。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、この城は関東の太守に封じられた徳川家康の重臣で徳川四天王のひとりである井伊直政が12万石で入ることになる。直政は直ちに箕輪城を近代城郭に改めるべく大改修を実施するが、慶長3年(1598年)に居城を箕輪城から高崎城に移したため、箕輪城は廃城とされた。
現在は本丸、2の丸、御前曲輪、城門跡、堀、土塁などが残されている。昭和62年(1987年)3月、箕輪城は国の史跡に指定された。