岡城 (豊後国)
岡城(おかじょう)は、豊後国直入郡竹田(現在の大分県竹田市大字竹田)にあった日本の城(山城)である。「臥牛城(がぎゅうじょう)」、「豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)」とも呼ばれる。
概要[編集]
竹田市街の東およそ2キロ、市街から歩いて30分ほどの白滝川と稲葉川(大野川水系)に囲まれた要害の地に存在した平山城である。標高は325メートルで、谷底との比高はおよそ96メートル、別名は臥牛城と言われ、天下三堅城の1つにまで数えられた。
平安時代末期の文治元年(1185年)、この地を支配した緒方惟栄が源義経を悼む為に築城したという。緒方氏は後に大友氏の支配下に入り、南北朝時代の建武元年(1334年)に大友氏の一族である志賀貞朝が入城し、この際に城を大改修して岡城と命名したという。
この城は志賀氏の居城として17代、260年にわたって支配した。この城が天下の堅城であると知られたのは、天正14年(1586年)に島津義弘の大軍に攻められたときである。当時の当主・志賀親次は大友宗麟に属して島津氏に抵抗し、岡城の堅固さもあって島津軍は遂に岡城を落とせずに撤退に追い込まれた(豊薩合戦)。文禄2年(1593年)、志賀氏は大友氏の改易と共に岡城から離れ、代わって豊臣秀吉の家臣で摂津国出身の中川秀成が播磨国三木城から6万6000石、後に7万4000石で岡城に移封されて入城する。秀成は城郭と城下町を整備し、江戸時代にも岡藩主として歴代の中川家当主が岡城を支配して、明治維新に至った。
現在、城跡は公園となっており、本丸や西ノ丸跡、石垣などが残されており、本丸の北側下には月見櫓跡の石垣が断崖上にそそり立ち、かつての堅城ぶりをしのばせている。国の史跡に指定されている。
なお、大分県出身の作曲家として知られる滝廉太郎は、明治25年(1892年)から音楽学校へ入学する2年間ほど、竹田に住んでいたが、その際に親しんだとされる岡城跡への郷愁が、後にあの名曲「荒城の月」を生む契機になったといわれている。2の丸後には同じく竹田出身で滝廉太郎の同窓である朝倉文夫による廉太郎像と、本丸跡に土井晩翠による「荒城の月」の詩碑が建立されている。毎年10月下旬には、市の文化会館で滝廉太郎記念音楽祭も開催されている。
秋の紅葉にも恵まれた場所で、観月と火祭が9月中秋の名月の夜に開催されている。
アクセス[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 国指定文化財等データベース
- 岡城跡 竹田市教育委員会文化財課
- 在りし日の岡城
- 岡城をドローン空撮!