月山富田城
月山富田城(がっさんとだじょう)は、島根県安来市広瀬町富田に所在した日本の城。城郭跡は国の史跡に指定されている。
概要[編集]
築城者は平安時代末期の武将であり近松門左衛門の人形浄瑠璃の作品「出世景清」の主人公にもなった平景清とされているが、これは伝説とされ史実ではないと見られている。鎌倉時代の出雲守護は佐々木氏、南北朝時代の守護は山名氏、室町時代の守護は京極氏と入れ替わり、これら歴代の出雲守護がこの月山富田城を居城にしたのは確かである。
京極氏は応仁の乱の後、戦国大名への脱皮ができず、出雲の京極氏は15世紀末には一族の守護代である尼子氏に次第に権力を奪われてゆく。文明16年(1484年)、当時の守護代である尼子経久は守護の京極誠経の反撃を受けて追放される。しかし文明18年(1486年)1月に経久は力を盛り返して京極氏を下剋上で追い払い、自ら戦国大名として出雲で自立し、月山富田城を居城とした。経久は山陰を中心にして大内氏、山名氏など周辺勢力を圧倒し、孫の晴久の時代までに出雲・石見・隠岐・安芸・備前・備中・備後・播磨・美作・因幡・伯耆の計11か国を支配する大戦国大名として君臨した。
しかし経久が死去すると尼子家の勢力に翳りが見え始め、安芸の国人領主から戦国大名に成長した毛利元就の攻勢を受けるようになる。そして永禄9年(1566年)には遂に晴久の子・義久の時代に元就に降って尼子氏は戦国大名としては滅亡し、月山富田城は毛利氏の支配下に入った。しかし尼子家の旧臣である山中鹿助は尼子一族の尼子勝久を奉じて再興を目指して挙兵し、月山富田城の奪回をたびたび図った。しかし毛利氏により城主に入れられていた家臣の天野隆重により敗北し、奪回はならなかった。山中鹿之助は以後、織田信長と結ぶなどして根強く抵抗するが、最終的には毛利輝元に敗れて勝久も鹿助も備中松山城近辺で殺され、尼子氏再興は完全に潰えた。
富田城の城主は隆重の後は、毛利元就の5男である毛利元秋などが居城とした。しかし毛利氏は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属したため、戦後に大幅減封されて長門・周防の2か国を支配する長州藩主になったため、出雲には東軍に属した堀尾吉晴・忠氏が徳川家康に与えられて入封し、月山富田城を居城とした。しかし吉晴・忠氏らは江戸時代となり、泰平の世になったことから山城の戦略的価値が薄れたことや城下町を形成する地形として適当ではないことから、慶長16年(1611年)に吉晴は居城を松江城に移したため[1]、ここにおいて月山富田城は廃城となった。
月山富田城は典型的な中世の山城跡で、月山は標高192メートルの小丘であるが非常に険しい天然の要害だった。毛利元就が尼子氏を滅ぼすために足かけ5年にも及んだことがその堅城ぶりを象徴していると言える。月山富田城の入口は塩谷口、御子守口、菅谷口の3つしかなく、その他はほとんど断崖絶壁だったという。山頂の本丸・二の丸の空堀、石垣、中腹の諸曲輪の石垣や当時の井戸跡などが現在の城跡には残されており、国の史跡に指定されている。