鹿児島城

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鹿児島城(かごしまじょう)とは、現在の鹿児島県鹿児島市城山町にかつて存在した日本である。薩摩藩主であった島津氏居城である。別名を鶴丸城(つるまるじょう)というが、これは城の形が翼を広げたに似ていたことに由来すると言われている。平山城であり、城山の東麓にあった城である。

概要[編集]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、島津氏の第17代当主・島津義弘西軍に属して薩摩国に敗走した。徳川家康は戦後、義弘の罪を咎めて島津氏を処罰しようとしたが、義弘の兄・島津義久と義弘の3男・島津忠恒(家久)の硬軟合わせた外交によりこの危機を乗り切り、島津氏は家康より所領を安堵されて薩摩藩主として江戸時代を生きることになった。とはいえ、その代償として家康と江戸幕府に服従を表わす意思を示す必要に迫られ、第18代当主となった忠恒は江戸城の手伝い普請、駿府城の堤防(薩摩土手)築造、禁中御普請材木の献上など、多くの負担を課されることになった。このため、薩摩藩の財政は火の車となる。それに加えて薩摩藩の藩政を固めるために新たな城を築く必要にも迫られた忠恒は、慶長7年(1602年)に鹿児島に城を築城した。この城は近世に代表的な天守閣を備えていない極めて質素な城で、どちらかというと中世の屋形的な城であった。これは家康に対する遠慮と財政の悪化、さらに忠恒が薩摩領内にまで侵攻されたら守れないということから島津武士の団結力を固めるために、あえて近世的な城を造らなかったのだとされている。

とはいえ、密かに忠恒は城の改造にも着手している。実は居城の鹿児島城を中心にして、領内に102の「外城」を築いていた。外城というと城を連想してしまうが、実際に城郭があるわけではない。領内を113の区画に割り、そこに地頭仮屋を設けて、その周囲に「麓」と称される武士の集落を作ってその地域の軍事や行政を管轄させるというものである。この組織は「郷」と呼ばれ、そこで生活する武士たちは鹿児島城下で生活する藩士すなわち城下士に対して、郷士と呼ばれることになった。

家康が一国一城令を発令すると、当然この外城制度は問題化された。それに対して忠恒は家康に弁明することでこの制度を存続させることに成功した。

鹿児島城の楼閣は明治6年(1873年)の火災で焼失し、その後に本丸跡に第7高等学校が置かれていたが、後に鹿児島大学医学部が設置された。

現在は堀に面した石垣の上に鹿児島県歴史資料センターである黎明館があり、鹿児島県の歴史全般を紹介している。また城山の緑を背景にしたこの一帯に、鹿児島県立博物館や市立美術館、県立図書館などがあり、いわゆる鹿児島の文化ゾーンを形成している。

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