観音寺城
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観音寺城(かんのんじじょう)とは、現在の滋賀県近江八幡市安土町石寺に存在した日本の城である。六角氏(佐々木六角氏)が居城としたことから、佐々木城(ささきじょう)とも呼ばれた。現在は城跡のみだが、国指定の史跡である。
概要[編集]
安土町の東端である五個荘町との境界にあった日本の城である。海抜433メートルの山である繖山(別名:観音寺山)の全山を城域とする大規模な山城で、近江源氏の嫡流であった佐々木六角氏が居城とした。
築城年代に関しては明らかでは無いのだが、応仁の乱が開始された翌年の応仁2年(1468年)に六角高頼が家臣の伊庭行隆と山内政綱に命じて築城させたのではないかとされている。そして年代を経るごとに城砦としての形を整備していった。高頼の子・定頼は名君と評される戦国大名であり、定頼は南麓の石寺を城下町として繁栄させたが、彼は織田信長に先んじて天文18年(1549年)に日本最初とされる楽市令を布告している。こうして全盛期を迎えていた六角氏は定頼が天文21年(1552年)に死去すると内紛と外圧で急速に衰退し、永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛しようとした際、定頼の子・義賢とその息子・義治は信長の軍勢に抵抗して甲賀に敗走し、この時をもって戦国大名としての六角氏は滅亡し、同時に観音寺城も廃城とされて終焉を迎えたのである。
現在は山頂部に本丸跡の石垣や石段、平井丸、落合丸、池田丸と呼ばれる3つの廓跡がある。山中の至るところには石塁が散在しており、往時を忍ばせている。
なお、昭和44年(1969年)から昭和45年(1970年)にかけて観音寺城跡の発掘調査が行なわれており、本丸跡付近から排水溝が発見され、さらに茶器・硯・水指・杯・鉢・皿・壺などが出土している。