明治

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明治(めいじ)とは、新暦1868年1月25日旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号であり、6年[注釈 1]元旦からは太陽暦に基づく暦日を採用した初めての元号となった。明治天皇在位期間とほぼ一致する。
なお、実際に改元詔書が出されたのは旧暦慶応4年9月8日新暦1868年10月23日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。

概要[編集]

慶応4年(1868年)9月8日、明治天皇の代始として改元が行われた。明治の出典は『周易』説掛伝にある「聖人南面而聴天下、嚮」と『孔子家語』巻五、帝徳に「長聡五気、設、五量、撫万民、度四方」である。これは「天下がるい方向に向かってまる」ことを意味しているとされている。

従来の陣儀・公卿難陳などは省略され、3つの元号候補が選ばれ、それを天皇を引いて決定したという。改元詔書には「今より以後、旧制を革易し、一世一元、もつて永式と為す」といわゆる一世一元の制の採用が記されている。

1912年7月30日に明治天皇の崩御により明治は45年目で終了。大正天皇が即日践祚して、即大正と改元された。

ただし『原敬日記』『財部彪日記』によれば、明治45年(1912年)7月29日の午後10時40分、あるいは午後10時43分に崩御したと記されており、宮内省の公式発表である7月30日午前0時43分崩御と異なった記録を残している。これは実際の明治天皇の崩御から翌日までがわずか2時間足らずで、その間に践祚朝見・改元などの儀式を行なう時間的余裕が無かったため、宮内省が故意に崩御の時刻を2時間ずらせたと見られている。

天皇に正式に明治と追号されたのは大正元年(1912年)8月27日のことであった。

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈
  1. 明治6年と皇紀2533年を併記した外務省文書がある。