松代城
別名 | 海津城、松城、待城(すべて旧称) |
城地種類 | 平城 |
縄張 | 輪郭式 |
城郭年代 | 近世 |
築城者 | 清野清寿軒、山本勘助、真田氏 |
主要城主 | 清野清寿軒、春日虎綱、阿部勝宝、森長可、山浦景国、上条宜順、須田満親、田丸直昌、森忠政、松平忠輝・忠昌、酒井忠勝、真田信之〜幸民 |
近年の復元や整備 | 平成16年(2004年)に本丸太鼓門・太鼓門前橋・北不明門・二之丸土塁の復元が終了 |
天守の現状 | 天守台(戌亥櫓櫓台)のみ存在 |
日本・続日本100名城スタンプ設置場所 | 真田邸 |
松代城(まつしろじょう)は、信濃国松代(現・長野県長野市)に存在した日本の城。
概要[編集]
初めて造られたのは14世紀初頭で、葛木城主村上義清の家臣・清野清寿軒の居館として築かれたのが始まりである。しかし義清は武田信玄によって攻められ、長尾景虎(後の上杉謙信)に助けを求めた。
一方、清寿軒は真田幸隆を通じて武田氏の家臣になり、居館はその後信玄が軍略家の山本勘助に命じて改築、中世城郭として造らせたとされる。これが海津城の誕生である。一説には、勘助の作成した軍事地図、「甲斐図」から名前を取ったとも伝わる。川中島の戦いでは、海津城と武田隊の本陣で上杉勢を挟み込み、一気に攻め込む「啄木鳥作戦」を勘助が提案するが、それを読んだ長尾勢が「車懸りの陣」で本陣に切り込み、海津城はその後も武田氏の城であり続けた。
天正6年(1578年)に城主の春日虎綱死去後、武田勝頼の重臣である阿部勝宝が城主となるが、天正10年(1582年)の天目山の戦いで勝宝が討ち死にした為、信濃北部を掌握した森長可が城主となった。しかし長可は本能寺の変で主君の織田信長が死去を受け、信濃への南下をやめ、城主の権限も払い下げて京都方面に向かった。
信長亡き後、天正壬午の乱が勃発すると、北部から上杉景勝が信濃南部に向かい進軍し、松代城はその配下となった。村上義清の子であり上杉謙信の養子である山浦景国が城主を就任。上条、須田と続いたが、豊臣秀吉に下った上杉は会津へ加増転封となった為に、田丸直昌が城主となった。
しかし慶長5年(1600年)、直昌は岩村城に移封となり、徳川家康は対立した上杉、田丸の以前に一時的に城主となっていた森長可の兄弟・森忠政に城を任せた。忠政は城名を変更し、「待城」とした。
忠政は小早川氏の無嗣改易に際し、美作藩へ加増転封したため、松平忠輝が城主の座に降臨した。慶長15年(1610年)、越後福嶋騒動で福島藩の堀忠俊が改易されると、忠輝は福島城へ移動した。忠輝は福島城を廃城として高田城を築城して高田藩主となるが、徳川秀忠により改易される。代わって高田城主となった酒井忠次の孫・酒井忠勝は、間もないうちに松代藩へ転封とされ、その後元和8年(1622年)に最上義俊が改易されると、その領地鶴岡へ加増転封した。
同年、真田昌幸を父に持つ真田信之が、その後城主となり、城名も「松城」と改名した。
- 初代 真田信之 - 二之丸を焼失
- 二代 真田信政
- 三代 真田幸道 - 松代藩検地を実施。松城を「松代城」に改名。本丸・二之丸・三之丸を焼失した為、政治機能を花之丸に移す
- 四代 真田信弘
- 五代 真田信安 - 仕事のサボタージュを減少させる為に、藩財政の改革を実施。しかしそのトップ・田村半右衛門の改革が引き金となり百姓一揆が発生した為、半右衛門を処刑
- 六代 真田幸弘 - 田村騒動で崩壊した藩の財政を復興
- 七代 真田幸専
- 八代 真田幸貫 - 海防掛。佐久間象山、海防八策を提案するも却下する
- 九代 真田幸教 - 政治機能の存在した花之丸を焼失。真田桜山の活躍により真田派による松代藩主としての実権を掌握
- 十代 真田幸民 - 松代藩知事。新政府側に就く。
明治時代初期に廃城となり、1873年に城内が全面放火される。これにより松代城は焼け跡となった状態で300年の幕を閉じた。
見どころ[編集]
見所は復元された土塁や天守台石垣である。武田氏の築いた鉄壁の縄張りは、江戸になっても使われた。
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備考[編集]
「松代」という名は、戦後に長野市が発足するまで松代市として使われ続けた。