松平忠吉

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松平 忠吉(まつだいら ただよし、天正8年9月10日1580年10月18日) - 慶長12年3月5日1607年4月1日))は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将大名東条松平家第4代当主、尾張清洲藩主。江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の同母弟。徳川四天王の一人・井伊直政の娘婿(正室が直政の娘・花(清泉院))にあたる。

生涯[編集]

江戸幕府の初代将軍である徳川家康の4男。母は側室西郷局戸塚忠春の娘)。幼名は福松丸。諱は忠康を経て忠吉と名乗る。東条松平家を継承した。

家康の4男で器量もあり、美男子で家臣の人望も厚かったという。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは舅の井伊直政の後見を得て初陣し、福島正則先鋒をめぐって争い、さらに島津義弘が撤退するために松平・井伊軍に対して死闘を繰り広げる中(島津の退き口)、島津の家臣・松井三郎兵衛に籠手を斬られて落馬するが、その松井と組討ちとなって首級を挙げる手柄を立てた。また、島津豊久も討ち取る功績を立てたといわれ、この功績から戦後に清須52万石を与えられ、その初代藩主となった。

しかし関ヶ原の際の戦傷は癒えることが無く、舅の直政は慶長7年(1602年)にそれが原因で病死。そして忠吉も戦傷の悪化によって慶長12年(1607年)に死去した。28歳没。なお、死因に関しては将軍後継をめぐる毒殺説や腫瘍による病死説も存在する。戦傷を受けてから死去するまで7年もかかるなどあまりに不自然なためであり、これに関しては一応、鉄砲の鉛玉が体内に残存して次第に鉛毒が回ったためではないかとする説もあるが、定かではない。

忠吉には、後継となる男子がいなかったため、東条松平家は無嗣断絶となった。後継の清須藩主は異母弟の義直が就き、家臣団はそのまま尾張藩に引き継がれた。

松平忠吉が登場する作品[編集]

外部リンク[編集]


先代:
-
清須藩主
1600年 - 1607年
次代:
徳川義直