赤穂城
赤穂城(あこうじょう)とは、兵庫県(播磨国)に存在した城である。江戸時代には赤穂藩の藩庁となった。江戸時代中期の赤穂事件(忠臣蔵)で著名な浅野長矩の居城で知られている。
概要[編集]
安土桃山時代から江戸時代初期[編集]
この城は安土桃山時代に織田信長や豊臣秀吉に従った宇喜多秀家の家臣・津波法印が現在の城郭の北寄りに役所を開設したのが起源だといわれている[注 1]。
宇喜多氏は関ヶ原の戦いで西軍に属したため戦後に改易となり、播磨国を与えられた池田輝政は、岡山の小早川氏に備えるため末弟の池田長政を赤穂に入れて支配下においた。小早川秀秋が狂死し、輝政の次男・池田忠継に小早川領の備前が加増されると、叔父である長政も同行して赤穂を去った。
元和元年(1615年)、姫路藩主・輝政の5男・池田政綱が5万5000石を与えられ、赤穂藩を立藩する。この際に赤穂城を大幅に大改修して居城としての体裁を整えたという。
寛永8年(1631年)、政綱の弟・池田輝興が播磨国佐用藩から3万5000石で赤穂藩に入るが、正保2年(1645年)3月に輝興は発狂し、自分の妻(黒田長政の娘)を殺害したことにより、江戸幕府によって改易された(正保赤穂事件)。
浅野氏の時代[編集]
池田家の改易後、常陸国笠間藩から浅野長直が5万3000石で赤穂藩に入る。長直は浅野長政の孫で幸長の甥である。
長直は正保3年(1646年)、城の南側に新しい城の構築を計画。2年後の慶安元年(1648年)にその許可が下りて築城に着手し、以後13年にわたって築城工事が進められ、縄張りは浅野家に仕えた甲州流兵学者の近藤正純によってなされた。寛文元年(1661年)に一部の隅櫓や天守閣を除いて竣工した。これが現在に残る赤穂城跡となり、海岸に近く、本丸に2の丸、3の丸とも同一平面上に築かれたいわゆる平城となり、江戸時代前期における最も新しい築城遺構の1つとして、城郭研究の中でも貴重な城とされている。
なお、築城工事が始まってから5年後に山鹿素行が長直の家臣となり、赤穂に数か月滞在した素行は築城工事に協力し二の丸虎口の縄張りを変更したとも伝わり、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている[1]。
ただし、二の丸の門付近で赤穂藩の家老・森主税らが志士13人に討たれており(文久赤穂事件)、まるで防御の役に立っていない。
さらに赤穂城の縄張りは天守台が中央になく複雑な不等辺多角形であり、「左右対称に丸く作るべし」という山鹿流の縄張り [2]とは全く異なっている。
長直の子・長友は早去し、長直の孫・浅野長矩の時代である元禄14年(1701年)に、江戸城内で高家の吉良義央に対して刃傷事件を起こしたため、即日切腹となり、浅野家は改易となった。なお、この一件から始まるのが著名な元禄赤穂事件である。浅野家改易後は、脇坂氏が城を預かるが重臣が突如乱心し、赤穂城内で何人もの死傷者を出した。
永井・森氏の時代[編集]
脇坂氏預かりの後、元禄15年(1702年)に永井直敬が3万3000石で入る。しかしわずか4年後に信濃国飯山藩に移封となり、その後に備中国西江原藩から森長直が2万石で入り、ようやく赤穂藩主は定着した。以後、森氏が12代にわたって城主を務めて、明治時代を迎えた。
明治維新から現代まで[編集]
明治6年(1873年)、明治政府は赤穂城の廃城を決めた。同11年(1878年)より赤穂城の取り壊しが始まる[3]。 同18年(1885年)、隅櫓や城壁などが取り壊され、堀が埋め立てられ、松林が伐採されたことにより、風害や洪水も起き赤穂城は荒廃した。
第2次世界大戦後の昭和30年(1955年)、大手門と大手隅櫓、城壁の一部が復元された。現在は本丸跡の南東隅に天守台が現存しており、2の丸跡には赤穂市の手によって整備が進められ、城跡公園となっている。また、桜の木が植樹され、花見公園として再開発された。
赤穂市街の南寄りにある城で、全域が国の史跡に指定されている。
遺構・復元史跡[編集]
享保14年(1729年)不審火により焼失したままだった大石内蔵助邸は再建され[4]、長屋門と赤穂大石神社は国の史跡に指定された。大石神社には義士史料館なども存在している。
周辺[編集]
赤穂の城下町は、城の北側、内陸側である。播州赤穂駅はさらに内陸側となる。
アクセス[編集]
関連項目[編集]
脚注[編集]
- 注
- 出典
- ↑ “赤穂城跡二之丸門枡形発掘調査現地説明会資料”. 赤穂市教育委員会. 2023年9月2日確認。
- ↑ 『武教全書』第五・築城
- ↑ 『廃城令』二号指定
- ↑ 「昭和期に、総工費3,138万余円をかけて復元」(「大石邸長屋門」解説板、赤穂義士会)