小諸城
小諸城(こもろじょう)とは、現在の長野県小諸市にかつて存在した日本の城である。
概要[編集]
小諸市街の南西端、千曲川北岸の岸上に存在する城である。元々は酔月城(すいげつじょう)、鍋蓋城(なべぶたじょう)、白鶴城(しらつるじょう)などとも称されていた。
築城については平安時代後期に当地を支配した豪族・小室氏による館の建設と見られている。室町時代後期の長享元年(1487年)に大井荘の豪族・大井光忠によって城郭の構えが整備された。
戦国時代になると、隣国の甲斐国の武田信玄による信濃侵攻が行われ、小諸城は武田四天王の馬場信春や山本勘助らを普請奉行として城郭の大々的な整備が行われ、信濃平定の拠点とされた。その後、この城は信玄の甥・武田信豊が城主となったが、天正10年(1582年)に織田信長の武田征伐によって武田勝頼が自殺した後、信豊も家臣によって殺害された。その信長も3か月後の本能寺の変で横死し、徳川家康の領有を経て、天正18年(1590年)には豊臣秀吉の家臣・仙石秀久が城主となる。秀久は小諸城の大改修に着手して現在に見られる規模に改編した。この時に3層の天守や数基の門、櫓などを構えた。
元和8年(1622年)、秀久の後継者である仙石忠政が信濃上田藩に移封されると、徳川秀忠の息子である徳川忠長が入った。その後は城代が置かれ、青山宗俊、酒井忠能、西尾忠成と城主が次々と入れ替わり、松平重政の後である元禄15年(1702年)、越後国与板藩から牧野康重が1万5000石で入ったことにより、ようやく藩主家が定着。以後、牧野氏の支配下で小諸藩庁として機能しながら明治時代を迎えた。
慶長18年(1613年)に建てられた大手門、明和2年(1765年)再建の三の門、その他本丸・北の丸の石塁、堀跡などが今も残されている。本丸跡には菅原道真や加具突短命、そして歴代城主を祀った懐古神社が鎮座している。本丸跡の南側は馬場跡で、その南西隅にある展望台からは眼下に千曲川の河景、遠くには八ヶ岳連峰から秩父の山々を眺望することができる。また、城跡入口の三の門を入ってすぐ右手にある2の丸跡は、大井氏が最初に築城したところであり、そして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、中山道から西上していた徳川秀忠が、上田城の戦いにおいて真田昌幸・真田信繁父子に敗れた際に逗留した場所と言われている。
現在、小諸城跡は懐古園(かいこえん)と呼ばれる公園として整備されており、園内には小諸市立藤村記念館、徴古館、動物園、児童遊園地、そして「千曲川旅情のうた」を刻んだ島崎藤村自筆の詩碑などがあり、桜や紅葉の名所として市民からは親しまれている。