犬山城
犬山城(いぬやまじょう)は、愛知県犬山市にある戦国時代の現存の城。
概要[編集]
彦根城、松本城、姫路城、松江城とともに国宝に指定されている。別名白帝城(はくていじょう)[1]。
地理[編集]
犬山城は木曽川南岸の丘陵上、標高80メートルに築かれた平山城である。
歴史[編集]
信長政権まで[編集]
文明元年(1469年)に斯波義郷の家臣である織田広近が、現在の犬山城がある丘陵の南側に当たる木之下に築城したのが始まりとされる。斯波氏は応仁の乱により衰退し、尾張支配は織田氏の物へと移行し、天文6年(1537年)、広近から織田敏定・織田敏信・織田信安・織田信定と続き、5代目にあたる織田信康が木之下城から現在の犬山城の地に移築したことにより、犬山城が成立した[1]。
信康は兄・織田信秀に従って斎藤道三と戦う。しかし天文16年(1547年)に信秀に従って参加した美濃攻めで斎藤道三に敗れて戦死した。
信康の跡を継いだ息子(4男)の織田信清は従兄弟の織田信長と争って犬山城から追われ、信長は犬山城を柘植与一に与えて守らせた。元亀元年(1570年)に信長の乳兄弟である池田恒興が城主となる。恒興は後に摂津尼崎城主に加増移封され、代わって信長の息子で恒興の娘婿とされる織田信房が城主となった。しかし信房は天正10年(1582年)6月の本能寺の変で父と共に死去した。
豊臣政権[編集]
信長の死後、尾張を支配した信長の次男である信雄は中川定成を城代とした。しかし天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉に味方した恒興の攻撃を受けて定成は戦死し、城は落城する。なお、秀吉自ら出陣した際、この犬山城に入城している。小牧・長久手の戦いが秀吉の政治的な勝利に終わると、秀吉は家臣の加藤泰景を城代に任命して大坂城に引き揚げた。その後、犬山城は信雄に返還され、信雄は家臣の武田清利を城代に任命し、天正15年(1587年)からは土方雄良を城代とした。
天正18年(1590年)の小田原征伐後、信雄が秀吉の命令で改易されると、尾張は秀吉の甥・豊臣秀次に与えられ、秀次は実父の三好吉房を城代に任命したが、文禄元年(1592年)に三輪出羽守に交替している。このように城主は合計8氏の交代を経て、文禄4年(1595年)に秀次が秀次事件で自殺すると、豊臣秀吉の家臣・石川貞清(石川光吉)が城主となる。このように城主が頻繁に入れ替わった理由に、犬山城が中山道や美濃街道を制する要地にあり、尾張北部を守備する要衝として重要視されていたことが挙げられる[1][2]。
石川は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属したため、戦後に改易されて所領を失った。
江戸時代[編集]
関ヶ原後、犬山城主には尾張清州藩主となった徳川家康の4男・松平忠吉の属城となる。忠吉は犬山城に守役の小笠原吉次を2万7000石で封じたが、慶長12年(1607年)に忠吉が死去して清州藩が無嗣改易になると、吉次も下総国佐倉藩へ移封となる。次いで尾張に入った忠吉の異母弟である徳川義直の属城となり、犬山城主には義直の補佐役として9万3000石(12万3000石とも)を食むことになった重臣・平岩親吉が入った[2]。
平岩は慶長16年(1611年)に死去して無嗣改易となり、しばらく城主不在の後、元和2年(1616年)か元和3年(1617年)に家康の重臣であった成瀬正成が尾張藩主の義直の補佐役として犬山城に入り、以後は成瀬氏が9代に亘り、領内分知で3万5000石を領して歴代を世襲して明治維新を迎えた[2]。なお、明治維新における維新立藩で犬山藩が成立し、犬山成瀬氏は版籍奉還まで正式に藩主として認められた。
廃藩置県後[編集]
犬山城は明治5年(1872年)に廃城となり、明治時代前期までは愛知県の所有とされた。しかしその後はかつての城主である成瀬氏の私有となり、昭和10年(1935年)に現存天守が国宝指定された。なお、太平洋戦争において名古屋城天守閣が戦火を受けて焼失したため、愛知県下で唯一の現存天守閣である[2]。
所有者[編集]
以前は、個人(成瀬家[3])による個人所有の城であったが[4][2]、現在は「財団法人犬山城白帝文庫」に移管された。
天守閣[編集]
犬山城は北から西にかけて木曽川が流れ、樹木の茂った断崖上に本丸があり、その南に二の丸と三の丸が設置され、その南方に城下町が開かれていた。東と北と西からは山城に見えるが、南は緩く傾斜して平地となり、犬山城はいわゆる平山城である[2]。
本丸の西北隅に三層五重、東西およそ18メートル、南北およそ15メートルの犬山城天守(国宝)があり、木曽川中流の楼上からの眺望が臨める。この天守閣は石川貞清による造営とされ、美濃金山城からの移築とされていたが、昭和36年(1961年)から4年間にわたる解体修理の結果、天守閣の下部と上部で明らかな用材、工法の年代差が認められ、下部は天文年間、上部は慶長初期の築造によるものとされている。日本では現在に伝わる最古の天守閣として貴重な遺構と見られている[2]。
交通[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
外部リンク[編集]