鳥取城
鳥取城(とっとりじょう)とは、現在の鳥取県鳥取市東町にかつて存在した日本の城である。江戸時代には鳥取藩の藩庁となった。
概要[編集]
戦国時代[編集]
現在の鳥取駅の正面に見える久松山一帯に存在した山城で、山頂に築かれた山上の丸と、西麓の山下の丸の2つに分かれていた城である。
この城は天文14年(1545年)、因幡国の守護大名である山名氏の第14代・山名誠通が天神山城の出城として山頂部に山上の丸を構築したのが起源であると言われている。当時の山名氏は応仁の乱で山名宗全が死去した後、一族で内訌を繰り返しており、誠通は但馬国守護の山名祐豊と抗争していた。その侵攻を防ぐためにこの出城を築いたものと見られている。しかし天文17年(1548年)、祐豊の攻撃を受けた誠通は天神山城を失って戦死した。
これにより因幡山名氏は完全に祐豊に乗っ取られ、祐豊は因幡山名氏第15代に実弟の山名豊定を入れて支配させた。豊定は永禄3年(1560年)に亡くなり、以後その子である山名豊数が第16代を継承。この間、鳥取城には家臣の武田高信が城番として入れられていたが、高信は山名豊数に対して下剋上を起こして永禄7年(1564年)に天神山城を攻撃し、豊数を戦死させた。そして豊数が亡くなるとその弟である山名豊国が第17代を継承した。豊国は奪われた天神山城や鳥取城を奪回するため、尼子氏の旧臣であった山中幸盛の助力を得て逆襲、天正元年(1573年)に高信を遂に攻め破って奪回に成功した。以後、豊国は鳥取城を居城とした。
安土桃山時代[編集]
鳥取城を奪回したものの、既に山名氏の衰退は明らかであり、天正年間に入ると西からは毛利輝元が、東からは織田信長がそれぞれ迫りつつあった。山名豊国は西の毛利輝元に服属したが、天正8年(1580年)に信長が派遣した家臣・羽柴秀吉率いる織田軍に鳥取城を攻められることになる(鳥取城の戦い)。このため、豊国は秀吉に降伏した。
ところが、豊国の降伏に不満を抱いた親毛利派の家老らが豊国を城から追放して、毛利氏に新たな城主の派遣を求めて抗戦した。毛利輝元の叔父・吉川元春はこれを受けて吉川経家を城主として派遣した。秀吉はこれを受けて豊国を迎え入れた上で天正9年(1581年)6月から3万の大軍をもって鳥取城攻めを開始。これに対して鳥取城兵は城兵に町人・百姓などを合わせて3000人余りだったというが、城側は鳥取城の堅城と、周囲の支城との連携をもって徹底抗戦した。秀吉は鳥取城を力攻めで落とすのは無理と判断し、参謀の黒田孝高の進言を得て兵糧攻めに持ち込んだ。絶望的な飢餓状態に陥り、毛利軍の援軍の望みも無くなった吉川経家は、4か月余り経った後の10月25日に遂に秀吉に降伏を申し入れた。条件は経家を含む主将格3名の切腹による城兵の助命であったが、秀吉は経家の潔さや善戦ぶりを評価して経家のみは許そうとし、信長も経家のみは許そうとしたが、肝心の経家が死を望んだので許可したという。この時、経家は石見国福光にいた4人の子どもたちに対して遺書を宛てて残しているが、それは戦国の美談として現在まで語り継がれている。また、久松山北東麓の円護寺には経家の墓が存在する。これが、戦国時代において有名な「鳥取城の渇え殺し」である。
その後、鳥取城は秀吉の家臣・宮部継潤が5万石で与えられた。しかし継潤の死後、跡を継いだ子の長房は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属し、戦後に所領を没収されて改易された。代わって鳥取城には、東軍に属した池田輝政の弟・長吉が入り、ここに鳥取藩が立藩されて鳥取城は同藩の藩庁となった。
江戸時代とその後[編集]
長吉は鳥取城の大改修に着手。この城は山城で堅固だったが、それだけに山頂の住居は平時にはむしろ不便であったため、中腹に2の丸を築いて城池を拡大し、外濠を拡張した。
元和3年(1617年)、池田輝政の孫である光政が32万石を与えられて城主となる。光政は袋川を南に押し出し、その懐に三重の防衛線を構築するなどして大改修に着手したが、15年後の寛永9年(1632年)に備前国岡山藩に移封され、入れ替わる形で従弟の光仲が入封し、以後は光仲の子孫が代々鳥取城を本拠に鳥取藩主として因伯2国を支配して明治維新を迎えた。
明治維新後、鳥取城は陸軍省の所管となり、明治12年(1879年)に建造物は全て破壊されてしまった。ただし山頂の天守閣、月見櫓、車井戸跡、西麓の2の丸、天球丸、馬場跡などの石塁や石垣は残されており、それが当時を現在まで忍ばせる形になっている。
現在、城跡は久松公園となっており、鳥取県立博物館などもあって鳥取市民の憩いの場所となっている。また、戦国時代に信長・秀吉という2大英雄が関与した城であり、乱世は山城、近世は平山城に移行したその城の移行過程を示すものとして非常に学術的に貴重と見なされており、城の東側にある秀吉が鳥取城攻めの際に本陣を構えたという太閤ヶ平を含めて国の史跡に指定されている。