金沢城
金沢城(かなざわじょう)とは、現在の石川県金沢市丸の内にかつて存在した日本の城である。江戸時代の加賀藩主・前田氏の居城、すなわち100万石の城として知られている。
概要[編集]
金沢城は現在の金沢市のほぼ中心部、犀川と浅野川に挟まれた小立野台地の北端丘上に存在した城である。
この地の最初の起源は城では無く、戦国時代に蓮如によって加賀国を「百姓の持ちたる国」とした加賀一向一揆の拠点である尾山御坊(おやまごぼう)という寺院であった。
加賀一向一揆が織田信長の命令を受けた柴田勝家らによって滅ぼされると、信長は勝家の甥である佐久間盛政に加賀を与えた。盛政は御坊跡に築城を開始し、本丸や曲輪、総構などを整備し、城郭に改めて、尾山城(おやまじょう)と名付けた。なお、盛政は「鬼玄蕃」として知られる勇将であるが、意外にも行政能力もあったようで、短期間の統治で西町、南町、松原町、材木町、安江町という、いわゆる尾山八町という当時としてはかなり発達した城下町を建設している。しかし信長の没後、盛政は叔父の勝家に従って賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉と敵対したため、戦後に捕縛されて斬首された。
その後、秀吉の計らいで賤ヶ岳の戦いで勝家を裏切ってその敗北を決定的にした前田利家に加賀が与えられ、利家は能登国小丸山城から尾山城に居城を移し、この際に城の名も金沢城と改名した。ただ、盛政の統治が短期間で終了したため、当時の尾山城本丸は寺院の本殿を転用したものも多く、そのため利家は家臣の高山重友(右近)に命じて大手や搦手を整備し、文禄元年(1592年)には利家の長男・前田利長が父の命令を受けて土塁を石垣に改め、百間堀、2の丸、3の丸、4の丸、北の丸などの曲輪を相次いで築いた。慶長4年(1599年)には利長が内堀を設け、慶長16年(1611年)には外堀の開削を行なって、金沢城が完成した。
大手掘は慶長4年(1599年)に高山重友が設計、監督を担当して造られた金沢城の内堀で、城の正面に当たる大手門に面している。百間堀、白鳥堀などと呼ばれる内堀もあったのだが、明治43年(1910年)から埋め立てが行なわれ、現在は大手掘のみが残されている。
利家は家臣団を巨大な城郭に居住させて管理する支配制度を採用したが、利家の子で利長の弟にあたる前田利常は寛永2年(1625年)に城下町の街区改正を実施し、城郭を囲んで武家居住地域、寺社境内地域、商工人居住地域に区分するなど、城下町を大々的に整備した。以後、金沢城は前田氏14代にわたって加賀100万石の居城として威容を誇った。
明治4年(1871年)、廃藩置県によって金沢城は明治政府の兵部省の所轄に置かれ、歩兵第7連隊の営舎に当てられた。明治14年(1881年)に失火により、石川門と三十三間長屋を除く全ての建物が灰燼に帰すという事件が起こる。このため、遺構として石川門[注 1]とその石垣や三十三間長屋があるのみで、ほかに大手堀の一部が残っている。
太平洋戦争の終戦後、昭和24年(1949年)になって城跡の大部分が金沢大学のキャンパスとなる。そして現在は郊外角間の地へ移転している。
アクセス[編集]
周辺施設[編集]
- 金沢地方裁判所
- 名古屋高等裁判所金沢支部
- 金沢簡易裁判所
- 金沢家庭裁判所
- 金沢法務合同庁舎
- 石川県観光物産館
- 金沢市消防局中央消防署味噌蔵出張所
- 兼六園(特別名勝)
- 尾山神社
- 尾崎神社
- 尾崎神社本殿(重要文化財)
- 尾崎神社中門(重要文化財)
- 尾崎神社透塀(重要文化財)
- 尾崎神社拝殿及び幣殿(重要文化財)
- 石川県政記念しいのき迎賓館(旧石川県庁)
外部リンク[編集]
- 金沢城公園ウェブページ - 石川県公式ウェブサイト内
- 世界遺産 - 金沢の提案
- 金沢城の観光ガイド