広島藩
広島藩(ひろしまはん)は、安芸一国と備後半国を所有した藩(外様・国主)[注釈 1]。居城は安芸国佐東郡(1664年に沼田郡に改称)広島(現在の広島県広島市中区基町)の広島城。支城として三原要害。
歴史[編集]
桃山以前[編集]
戦国時代、安芸の国人だった毛利元就は守護の武田元繁を討って勢力を拡大、大内義長を滅ぼし、尼子義久を降伏させて中国地方(一時は九州の一部にも及んだが大友氏に駆逐された)の覇者となった。豊臣政権下では、天正19年(1591年)3月、元就の孫である毛利輝元が秀吉より朱印状を与えられ、112万石を安堵された[注釈 2]。
また、同月に輝元は、山城である吉田郡山城から平城で新たに築いた広島城に移った。
幕藩体制[編集]
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の総大将として大坂城にいた輝元は、戦後に山陰・山陽の九か国から防長二国(長州藩・現在の山口県)29万8千石に減封された[注釈 3]。
毛利家のあとは安芸・備後2か国40万2千150石[注釈 4]の太守として、尾張国清洲より福島正則が加転封された。正則は慶長6年(1601年)から再検地を実施し、高直しで49万8000石の朱印高を得た[2]。元和5年(1619年)6月、広島城を無断改修した事を咎められ、川中島藩に大減封された。
代わって紀州より、浅野幸長の弟の浅野長晟が安芸国および備後八郡の国主大名として入封した。芸備両国に及んだ福島領より狭く(35万8千石)なっているが、長晟は入封後に福島に次ぐ二度目の再検地を実施、42万6000石の検知高を得て幕府から認められた。2代浅野光晟は徳川家康の娘振姫の所生で以後の浅野氏は松平姓を授けられるなど優遇され、広島から転封されることなく明治に至る。
支藩(分家)として三次藩、広島新田藩があったが、享保5年(1720年)に三次藩が改易。赤穂藩(元の常陸真壁藩、同笠間藩)は分家ではなく別家(本家が既に持っていた自領を割いて立藩した大名ではない)である
歴代藩主[編集]
福島家[編集]
外様 49万8000石 (1600年 - 1619年)
浅野家[編集]
外様 42万6000石 (1619年1871年)
- 長晟(右兵衛佐、侍従)
- 光晟(安芸守、左少将)
- 綱晟(弾正大弼、侍従)
- 綱長(安芸守、侍従) - 治世時に元禄赤穂事件が起きる。
- 吉長(安芸守、左少将)
- 宗恒(但馬守、侍従)
- 重晟(安芸守、左少将)
- 斉賢(安芸守、左少将)
- 斉粛(安芸守、左少将)
- 慶熾(安芸守、侍従)
- 茂長(安芸守、左少将)
- 長勲(紀伊守、左少将・明治に権中納言)
脚注[編集]
注釈[編集]
- ↑ 浅野家時代は備後国の南西部が福山藩。
- ↑ 天正19年に豊臣秀吉から発給された領知朱印状・領知目録
「安芸 周防 長門 石見 出雲 備後 隠岐 伯耆三郡 備中国之内、右国々検地、任帳面、百拾二万石之事」『毛利家文書』天正19年(1591年)旧暦3月13日付(『大日本古文書 家わけ文書第8 毛利家文書之三』所収)。内訳は、
- 2万石 寺社領
- 7千石 京進方(太閤蔵入地)
- 6万6千石 羽柴小早川侍従(隆景)、内1万石無役
- 11万石 羽柴吉川侍従(広家)、内1万石無役
- 隠岐国 羽柴吉川侍従
- 10万石 輝元国之台所入
- 8万3千石 京都台所入
- 73万4千石 軍役
- ↑ 慶長12年(1607年)、再検地で36万9千石に高直し。
- ↑ 安芸一国21万2千950石並びに備後一国18万9千200石[1]。
- ↑ 俗に左衛門大夫(左衛門尉で従五位下以上の者)と称する。