七尾城
七尾城(ななおじょう)とは、現在の石川県七尾市古屋敷町タ8-1にかつて存在した日本の城である。
概要[編集]
現在の七尾市の南東、城山と呼ばれる山にあった山城である。
この城は室町時代に室町幕府の管領を務めた能登国の守護大名である畠山氏の居城であった。能登畠山氏は応仁の乱後に輩出した第7代当主・畠山義総の時に全盛期を迎える。この義総は優秀な人物で、応仁の乱により混乱する京都を離れて地方に逃れてくる公家や文化人を積極的に保護した。名前を挙げると冷泉為広・為和父子(公家で歌人)、丸山梅雪(茶人)、宗祇や宗碩(連歌師)などがそれらであり、さらに後に桃山美術の画聖として名前を馳せた長谷川等伯も義総が展開した文化政策のため七尾で生まれた人物であり、義総時代の能登は一代文化サロンとして大いに栄えた。
しかし、義総が死去すると、第8代当主で息子の義続、第9代当主で孫の義綱はいずれも暗愚だったことから、義総を支えた重臣によってたちまち傀儡とされてしまう。なお、この義綱の頃までに城の陣地の整備が成されたと見られている。
天正4年(1576年)からは越後国の上杉謙信の侵攻に遭い、当時畠山氏で権力を掌握していた重臣・長続連は織田信長に支援を要請して七尾城に籠城した。この七尾城の戦いはあの上杉謙信をして1年も苦しめるほど善戦したが、その間に城内で疫病が蔓延して城兵の士気が低下すると、城内にいた味方の遊佐続光らの裏切りを受けて落城し、続連らは殺された。
その後、謙信が没すると七尾城は信長によって奪回され、後に前田利家の支配下に入り、平山城である小丸山城を築いて移る。1583年(天正11年)、利家は加賀半国を得て尾山城へ本拠を移した後、この際に廃城となったと見られている。
名君・義総が整備し、あの軍神・謙信を手こずらせた天然の要害である七尾城は、城跡の壮大さから日本の五大山城の一つに数えられている。昭和9年(1934年)に山頂を中心にして国の史跡に指定された。
平成3年(1991年)に七尾市内の古屋敷町にあるシッケ遺跡の発掘調査から城下町の遺構、日常雑器と共に、茶道や香道に使用されたと見られる天目茶碗、香炉などが発見され、これらは義総時代の能登の文化の高さを示しているとされる。平成7年(1995年)からは範囲を広げた七尾城跡調査が開始されている。
遺構など[編集]
前田利家が能登の拠点を小丸山城に移したため、開発や災害などによる遺構の損失を逃れ、遺構が数多く残っている。各曲輪の石垣のほとんどが現存する。特に「桜の馬場」には石垣が五段に組まれ、七尾城でも最大規模[1]。
本丸跡から能登半島と日本海がよく展望できる。本丸「国指定史跡 七尾城跡」にある上杉謙信の『九月十三夜』石碑はよく知られているが、二の丸跡にも当時の大名の中でも文化人だった能登守護・畠山義忠の「野も山も みなうつもるゝ 雪の中 しるしはかりの 杉の村立」はじめ複数の歌碑が城址内に建つ。
七尾城史資料館[編集]
七尾城史資料館は、七尾城跡への登り口近くに存在する。これは昭和38年(1963年)に畠山氏の一族である松波畠山氏の末裔に当たる畠山一清によって設立された。建築面積は179.77平方メートル、鉄筋コンクリート造りで、陸屋根、2階建ての建物で、展示室や収蔵庫、事務室、作業室から成り立っている。収蔵品数は七尾市指定の文化財の天目茶碗や同じく水晶製舎利塔など約170点が存在する。他に、畠山氏守り本尊青銅製三尊仏、畠山由来記をはじめ、畠山氏の家臣の使用したとされる武具・薙刀・槍・軍配など、戦国時代の七尾城の一端をしのばせる遺品や遺物、各種の能登釜の作品など、能登地方の民芸品が多数展示されている。「七尾城攻略戦の図」や七尾城CG映像も公開されている。前庭には高橋掬太郎の詩碑(歌碑)である「古城」と「ああ七尾城」が、自然石に刻まれて建立されている。
資料館に隣接している懐古館は古屋敷町の肝煎だった飯田家の旧邸宅。玄関に『九月十三夜』衝立と七尾の一つ「松尾城」の松古木があるほか、畠山氏所蔵の刀剣などが展示されている。邸前には七尾出身の長谷川派画人・「長谷川等伯生誕之地」の碑。
アクセス[編集]
脚注[編集]
- ↑ 七尾城「桜馬場跡」説明板