九州
九州(きゅうしゅう)は、日本の四大島の一つ。九州の名の由来は旧令制国が9ヶ国あったことによる(後述)。
概要[編集]
日本で本州、北海道に次ぐ大きさを誇る島。面積は3,674,982km²で世界では第37位の大きさ。九州地方の大部分を占めている。
行政区画[編集]
江戸時代まで筑前国・筑後国・豊前国・豊後国・肥前国・肥後国・日向国・薩摩国・大隅国の旧国9つから成り立っていた。
明治時代の廃藩置県後の府県統合で、西南戦争前は福岡県、長崎県、熊本県、大分県、鹿児島県の最少5県となっていた。
その後、1883年(明治16年)5月に長崎県から佐賀県、および鹿児島県から宮崎県が分立して、現在の7つの県となっている。
旧国からみると、肥前から2県に分かれたものの、薩摩・大隅が1県となったため、増加分がチャラとなり 、さらに、筑前、筑後、豊前、豊後が2県に再編されたため、旧国2国分減少している。
地理[編集]
九州の中央を南北に走る九州山地により、東西に大きく二分されている。九州山地はその中核の阿蘇山が世界最大のカルデラを持つことで有名である。
九州山地の西側では筑紫山地によって福岡県周辺と長崎・佐賀・熊本・鹿児島県の地域と、大きく南北に分けられている。
九州山地西側で筑紫山地北側の福岡県は本州と距離が近く、福岡市、北九州市に見られるように都市や工業の発達が著しい地域である。
九州山地西側で筑紫山地南側の長崎・佐賀・熊本・鹿児島県は有明海と八代海を取り囲んでいる。また、有明海北部の長崎県は、その北部でさらに大村湾を囲んでいるため、海岸線が非常に長く、その長さは巨大な島である北海道についで全国第2位である。
熊本県の人吉から八代海に注ぐ球磨川は日本三急流の一つに数えられている。
鹿児島県は大隅半島と薩摩半島で鹿児島湾をはさんでいるが、もともと鹿児島湾に浮かんでいた桜島の1914年の噴火により大隅半島と陸続きになった。この桜島はもとより非常に活発であり、九州南部に広がる火山灰の台地であるシラス台地の一因でもある。
歴史[編集]
平安時代以前[編集]
日本神話によると、ニニギノミコトが高天原から降臨した(天孫降臨した)際に降り立った地がいまでいう九州地方の高千穂であるという。
縄文時代から存在している吉野ヶ里遺跡であるが、これは佐賀県にある。この遺跡はその高い防御性で知られている。
弥生時代、紀元前5世紀ごろに大陸から九州地方に稲作が伝来し、九州から全国に広まっていったという。
後漢書東夷伝や魏志倭人伝に見られる奴国は九州地方に1~3世紀ごろに存在したとされる。奴国は、後漢書東夷伝によるところの漢委奴国王印を賜った国として知られている。なお、漢委奴国王印は江戸時代の17世紀に耕作中の百姓によって偶然発見されたものである。
紀元後2,3世紀ごろに存在したとされる、女王卑弥呼により統治されていたという邪馬台国は九州にあったとする説があるが、その真偽は現代の歴史学をもってしても不明である。
5世紀ごろになると近畿地方にヤマト政権が起こったが、このヤマト政権が7世紀ごろになり律令制を取り入れるにあたって九州は南海道の一部に組み込まれた。
7世紀には今で言う福岡県太宰府市に大宰府がおかれ、九州の行政の中心となった。
663年の白村江の戦いで倭軍が大敗したことによる唐新羅連合軍の攻め込みを恐れた朝廷により、九州沿岸の防衛のために防人の制度が始まった。これは、ランダムに選ばれた東国の農民に九州の防衛をさせる制度である。この制度は1年間の兵役と自己責任による往復を求めたため、農民にとっては負担が重く、万葉集の歌『韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして』などのような、防人歌と呼ばれる歌が多く詠まれた。この制度は10世紀まで続いた。
武家政権[編集]
鎌倉時代になると、元寇がおこった。これは大帝国モンゴル帝国の元の行程であったフビライ・ハンによる元軍が日本を支配下におさめるために九州地方に2度攻め込んだものである。一度目は1274年の文永の役、二度目は1281年の弘安の役である。日本の武士は戦闘様式の違いや"てつはう"をはじめとするまだ見ぬ武器などにひどく苦しめられたが、いずれもたまたま訪れた台風の力も相まって元軍を退ける事が出来た。なお、これについては日本は戦闘には勝利したにもかかわらず得られたものが少なかったため鎌倉時代の封建制度の御恩と奉公にて十分奉公した(戦闘に勝利した)にもかかわらず御恩を与える事が出来なかった(土地や金をほとんど与えられなかった)ため、御家人を徳政令で救済したが、社会や経済の乱れが起こり、ひいては1333年の鎌倉幕府滅亡の間接的な原因の一つにもなった。
室町・戦国時代になると1543年の九州南部の種子島へのポルトガル人による鉄砲伝来や1549年のフランシス・コザビエルによるキリスト教伝来があり、やがて九州は南蛮貿易が盛んにおこなわれる地になった。また、キリシタン大名もこのころ誕生した。
安土・桃山時代は九州は豊臣秀吉による朝鮮出兵の拠点となった。
江戸時代になり鎖国がはじまると、宗教弾圧やその他諸々の理由により、天草四郎時貞を中心とした島原・天草一揆が起こった。また、鎖国により長崎の平戸や出島がオランダや中国メインの数少ない対外交易を行う地となった。また、長崎にシーボルトによる鳴滝塾がつくられたのも鎖国中である。他方、朝鮮交易や通交は対馬、壱岐経由がメインだった。
開国後には長崎に大浦天主堂で有名なカトリック浦上教会が建立された直後の隠れキリシタンによる信教の告白が有名である。これはのちに「東洋の奇蹟」とよばれた。
明治以降[編集]
明治時代になると、明治政府のスローガンの一つ"富国興業"のもと官営の八幡製鉄所が現在の福岡県北九州市に建てられた。この製鉄所は現在では民営の製鉄所として営業している。
第二次世界大戦では1945年8月9日、6日の広島に続いて長崎へ原子爆弾の投下が行われた。これにより、およそ15万もの人々が犠牲になったという。
1965年には公害病の原点とも言われる水俣病が熊本県でおこった。この病は手足の震えや感覚障害、運動失調などを引き起こし、最悪の場合死に至ることもあるもので、主な原因はチッソ株式会社の水俣工場から流されていた廃液に含まれていたメチル水銀である。四大公害病の一つにも数えられるこれは、補償問題などにおいていまだ解決に至っていない。
2011年3月11日には九州新幹線が全線開通したが、同日の大震災の影響でそのセレモニーなどは取りやめとなった。
交通[編集]
空港と高速道路はすべての県に整備されている。南部では沖縄を含む南西諸島への船舶便も運転されているが、この区間では航空による運輸もまた盛んである。
道路では、本州から海底トンネルを利用して徒歩で入る事が出来る。
また、東側の大分県、宮崎県においては鉄道交通の寄与度は低く、いわゆる車社会の状態である。
鉄道では、山陽新幹線によって、本州とつながっている。中でも、九州地方の中で最も本州に近い新幹線の駅である小倉駅と、九州で最も大規模な街である福岡市の中心駅の博多駅はともに九州地方の鉄道の要衝である。
博多から南には、鹿児島市の中心駅の鹿児島中央駅まで久留米市や熊本市などの九州の主要都市を経由して九州新幹線が敷かれており、山陽新幹線との直通により、最遠で新大阪駅から乗り換えなしでアクセスできる。また、九州新幹線の途中駅新鳥栖駅から長崎駅方面へは佐賀市などを経由した九州新幹線長崎ルートが敷設される予定である。
船舶では、北部ではJR九州によるビートルが福岡-釜山間を運転している他、東部ではオーシャン東九フェリーによる門司(福岡県)-徳島-東京間、宇和島運輸フェリーによる別府-八幡浜(愛媛県)間、宮崎カーフェリーによる宮崎-大阪間、南部の奄美・沖縄航路など、他地域とのアクセスが良い。
観光[編集]
九州は#歴史節に述べたような遺跡や建築物が広く観光スポットとして有名どころとなった。また、九州は大分県の別府温泉・湯布院温泉、佐賀県の嬉野温泉、宮崎県の京町温泉など全国的にも有名な温泉がいくつかあるほか、火山の多い九州ならでは、阿蘇山のカルデラや桜島を訪れる観光客も多い。
長崎県佐世保市にあるハウステンボスはオランダの街並みを再現したテーマパークで全国から多くの観光客が訪れる。
JR九州が2013年から運行を開始したクルーズトレイン"ななつ星in九州"は国内のみならず東アジアの富裕層をも対象とした観光用豪華寝台列車で、1泊2日、または3泊4日のコースで九州を巡り、各地の観光地を巡るものである。