躑躅ヶ崎館
躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)とは、現在の山梨県甲府市の武田神社境内全域とその周辺に存在した甲斐国の守護大名・戦国大名であった甲斐武田氏の居館である。武田氏館跡とも言われている。城ではなく、武田家の当主の居住と政庁を兼ね備えた居館であった。
概要[編集]
永正16年(1519年)に当時の甲斐の守護であった武田信虎は、それまでの本拠であった石和から甲府に拠点を移し、ここに躑躅ヶ崎館を建設した。武田氏による甲斐の統一を推し進める信虎は以後、ここを本拠にして勢力を拡大してゆく。天文10年(1541年)に信虎は嫡子の武田晴信(後の武田信玄)によって追放され、以後は晴信がこの居館の主となった。
晴信の時代に甲斐武田氏は本拠の甲斐国の他に信濃・駿河・上野・遠江・飛騨と勢力を大きく拡大して天下に名立たる戦国大名として君臨したが、それに反してこの居館はその勢力を拡大した甲斐武田氏の本拠とは思えないほど小規模なものだったと伝わる。東西はおよそ280メートル、南北はおよそ190メートル、面積はおよそ4万6000平方メートルでしかなかった。南と東に重臣の屋敷や当主の政務を執行する政庁があったとされている。普通、居館ともなれば防御も考慮されるはずであるが、周囲には堀と土塁、天守台をめぐらしただけで、堀は4周でしかなかったという。門は4つ存在し、館内は3つの廓で分けられていた。ただし、現存する構えは武田家が滅んだ後に甲斐を支配下に置いた徳川家康によるものとされており、武田信玄の時代における館はこれよりさらに小規模だったのではないか、とする見解もある。武田信玄は「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」の名言を残しているので、本拠地で戦う意思は無かったのかもしれない。とはいえ最低の防御くらいはしていたようで、もし敵が攻め込んできた場合には居館の北東およそ2キロに位置する要害城で防戦するようになっていたのだという。
栄華を誇った武田家も、武田信玄の死後に跡を継いだ武田勝頼の時代である天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に大敗を喫して山県昌景や馬場信春ら多くの有力家臣を失うと急速に衰退する。これにより信長・家康らに攻勢をかけられた勝頼は自領を守るには従来の居館では不可能と判断し、天正9年(1581年)に韮崎に新府城を築城して本拠を移した。その後甲斐を治めた加藤光泰の時代に天守台が築かれ、豊臣期にも政治的機能は残っていた。しかし甲府城築城に伴って機能は完全に移行して、躑躅ヶ崎館はおよそ80年の歴史をもって廃館となった。
昭和13年(1938年)に中世の戦国大名の典型的な居館跡として国の史跡に指定された。
アクセス[編集]
- JR甲府駅(北口)よりバス山梨交通「武田神社」行で約8分。
- 中央自動車道甲府昭和インターチェンジから約30分。