南京事件
南京事件(ナンキンじけん)は、日中戦争中の1937年12月に日本軍が中国の南京市を占領した後、数か月にわたって多数の一般市民、捕虜、敗残兵、便衣兵を虐殺した事件である[1][2]。南京虐殺事件[2]や南京大虐殺[3]とも呼ばれる。
概要[編集]
日中戦争中の1937年12月上旬、日本軍が中華民国の首都南京を攻略した。この南京攻略の前後に日本軍によって行われた一連の虐殺、および略奪・暴行・強姦・放火などの不法行為を総称して南京事件という[4]。犠牲者数に関しては様々な見解があり、正確には不明であるが、日本の研究者の多くは数万人から10数万人と推定しており、中国政府の見解では30万人とされる[5][注釈 1]。少なくとも、当時の南京市の人口は疎開などで20万人前後になっており、30-20万人というのは盛りすぎである。一方で、莫大な証拠映像と証言・戦争には虐殺が付きものなことから、ゼロ説も疑わしいと言える。
事件の名称については「南京事件」の他、「南京虐殺事件」「南京大虐殺」とも呼ばれ、適切な呼称を巡っては様々に議論がある[7]。研究者によって、「南京事件」という用語は「南京大虐殺事件」の略称であるとも[8]、不法な殺害の他に略奪や強姦なども含めた不祥事全体を意味しているようだとも説明される[2]。中国では「南京大屠殺」という呼称が使われ、日本などにも「南京大虐殺」という形で普及している[7][注釈 3]。
上海における戦闘のために展開していた日本軍(中支那方面軍麾下の上海派遣軍および第10軍)は、11月上旬に上海戦が一段落すると、現地部隊の独断専行によって南京の攻略を決定し進撃した。日本の陸軍中央は当初南京への進撃に反対していたが、最終的に現地軍の行動を追認する形で南京攻略は正式な命令となった。この日本軍部隊は上海戦の損耗から回復しておらず、にもかかわらず作戦行動に必要な物資の補給・兵站の確保が行われなかったため、必要な物資の大半を現地調達に依存することになった。この結果として南京への進撃中、および南京攻略後にも日本軍による継続的な略奪が行われた。また進撃中における家屋の破壊・放火、一般市民・捕虜・敗残兵に対する虐殺、強姦などが随所で行われ、南京攻略後には南京市街でより大規模な形でこれが発生し、12月14日から12月16日頃にかけてピークを迎えた[9][10]。その後も日本兵による不法行為は継続し、これがある程度終息するのは1938年3月頃になってからであった[1]。
日中戦争(第二次世界大戦)の終戦後開かれた極東国際軍事裁判(東京裁判)において、中支那方面軍司令官であった松井石根大将が、南京とその周辺における一般市民と捕虜の殺害について犯罪的責任があるとして絞首刑が宣告された[6][11]。A級戦犯(平和に対する罪)を裁いた東京裁判とは別に、BC級戦犯(交戦法規違反)とされた被告が連合国各国の軍事法廷で裁かれ、南京事件に関わるものは南京軍事法廷で審理された[12]。この法廷で南京戦に参加した日本軍部隊の関係者4名(谷寿夫中将、田中軍吉大尉、向井敏明少尉、野田穀少尉)に死刑判決が下され処刑された[13]。
前史[編集]
上海戦と南京占領[編集]
日本と中国(中華民国)は1937年7月7日の盧溝橋事件以降、日中戦争に突入していた。8月には南京市にも戦禍がおよび始め、8月15日には日本海軍機によって飛行場などの軍事施設と周辺の人口密集地帯に対して爆撃が行われた[14]。以降、南京市には繰り返し爆撃が行われ、8月29日は南京駐在のアメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・イタリアの外交代表が日本に抗議書を出した[15]。しかし、日本軍の空襲は継続し、9月には上海の飛行場からより更に本格的な攻撃が可能な状態となった[16]。日本軍は早期に南京周辺の制空権を確保し、また「爆撃はかならずしも目標に直撃するを要せず、敵の人心に恐慌を惹起せしむるを主眼とするをもって...[17]」という通達が出されるなど、民間人への被害を考慮しない姿勢も相まって、一連の爆撃による犠牲者は増大した[18]。日本は9月には上海派遣軍の増派も決定したが、中国軍の激しい抵抗もあって11月まで膠着状態が続いた[19][20]。しかし11月半ばには上海の全域を占領することに成功した[21][20]。
上海の占領後、日本軍は南京へ向けて進軍した。日本の上海派遣軍は上海占領時点で軍紀弛緩が深刻化しており、士気の低下や食糧不足によって現地からの徴発(実質的な略奪)や暴行が増大していた[21]。この状況を懸念した参謀本部は南京進軍に反対したが、11月後半に現地軍は独断専行で南京進軍を開始した[22][23]。このような状況で開始された南京への進軍では日本軍は兵站の大半を現地徴発に依存しており、軍紀の紊乱と相まって進撃路上の町や村では略奪と暴行が繰り返された[24][25]。南京への進軍途上で発生した一連の略奪・暴行は、「南京に向かう追撃戦の全過程は、すでに上海戦の段階で顕著になっていたさまざまな不法行為、残虐行為がより大規模な形で拡大される過程であり、南京事件の直接の前史をなす道程であった」と評される[24][注釈 4]。
12月1日、日本軍では正式な南京攻略の命令が出された。当時南京は中華民国の首都であったが、主だった政府首脳部や各国の外交使節は日本軍の進撃を前に脱出し、重慶や漢口に拠点を移していた[25][27]。12月9日に日本軍による開城勧告が航空機により城内に投下されたが応答はなく、翌日に総攻撃が命じられた。中国軍の南京防衛準備は遅滞しており、三方から包囲する日本軍に対して長江(揚子江)を背に背水の陣の形をとり、各部隊に死守命令を出すと共に船舶の管理を厳格化することで兵士たちの退路を塞ぎ、南京を死守することを企図した[25][28]。
しかし、12月12日午後には中国軍に南京の放棄と退却命令が出された[29]。日本軍による利用を阻止するため、中国軍は重要建造物の放火破壊を開始し、市内の主要な建造物が破却された[29]。13日朝には中国軍の組織的抵抗は終了した。中国軍の司令官は部下・一般市民を無対策のまま置き去りにして逃亡し、さらに長江を渡ろうとする中国軍部隊では船の奪い合いが発生し、また渡江を阻止しようとする部隊の間での同士討ちも発生した[30][31]。
進撃中の不法行為[編集]
南京占領に先立って日本軍の進撃路上にあった村落で発生した略奪は兵士個々人の判断によるものではなく、兵站上の問題を解決するために組織的に行われたものであった[26]。日本軍が必要とする物資の大部分が現地調達によって賄われた事は『陸支密大日記』において「丁集団(第十〇軍)作戦地域は地方物資特に※、野菜、肉類は全く糧は敵に依るを得たり[注釈 5]」と記録され、第9師団参謀部は「軍補給点の推進は師団の追撃前進に追随するを得ずして上海付近より南京に至る約百里の間殆ど糧秣の補給を受くることなくほとんど現地物資のみに依り追撃を敢行」したとすることなどからわかる[32]。
こうした物資の強奪は「徴発」という体裁をとっていたため、徴発証券が発行されることになっていたが、その実態は略奪であった[33][34]。東京裁判において上海派遣軍参謀榊原主計は占領地に行政上の責任者も一般住民も残留していない場合、軍事上の必要性から徴発が必要であった場合には、徴発した物資を明記し、所有者判明の場合は代金を受領しに出頭するよう張り紙をしていたことを証言している[32]。しかしこの徴発証券の運用は極めて杜撰であり、実際には発行されなかった場合が多く、発行されたものも内容の正確性について注意が払われなかった。第9師団経理部付の将校であった渡辺卯吉は日本軍が発行した徴発証券について次のように回想している。
略奪には住民の殺害が伴い、戦闘行為の巻き添えになったものも含め、住民の虐殺が横行し多くの犠牲者が出た[36][37]。同県の本湖村でも村民40名余りが殺害された[37]。また、掃討の延長として敗残兵や捕虜の殺害も頻繁に行われた[注釈 6]"。この捕虜の虐殺は、当時複数の日本軍部隊が功名心に駆られ「南京一番乗り」を目指して急進撃を行っていたため、捕虜を足手まといと見たことによってより激しい形で行われた[39]。
進撃中の不法行為としては日本兵による放火や強姦も深刻な問題となった。兵站が脆弱な日本兵にとって、食糧と並んで現地調達が必要な物資の一つとして防寒用の薪があった。これを現地調達する手段として、タンスなどの家財道具が略奪された他、家そのものを破壊して薪とすることが行われた[40]。また単なる気晴らしや余興として軍事上の必要性が全くない家屋への放火も頻発した[41]。中国人女性に対する強姦事件も頻発した[42]。
南京陥落後[編集]
日本軍は外国の首都占領が長く歴史に残り諸外国の注目を集める出来事になるとして12月7日に「南京攻略要領」を示達し、前線部隊に統制の強化と綱紀粛正を命じていた[43][44]。しかし、前線部隊の司令部はこうした通達を遵守させる意思に乏しく、また南京への進軍自体が準備不足で行われた中で現実的に統制に十分な憲兵を備えておらず、12月17日時点において7万人の日本兵に対し憲兵は17人しか存在しなかった[45][注釈 7]。このため日本軍は兵員による不法行為を統制する手段を欠いており、更に南京制圧直前に中国軍が実施した焦土戦術によって周辺地域で物資の調達ができていなかったことが日本軍の略奪に拍車をかけることになった[47]。
中国軍は日本軍の南京攻略に先立ち、12月7日には南京周辺地域における焦土作戦を開始した(「清野作戦」)。南京周囲の居住地、道路沿いの村落が焼き払われ、追い出された住民たちは南京安全区(The Nangking Safety Zone)に殺到した[47]。日本軍の司令部は現地部隊に南京城内への駐屯を禁止していたが、攻撃の余勢を駆った日本軍部隊は司令部の統制外で城内に入場するものが相次ぎ、また焦土作戦の結果場外区域に駐屯することが困難になった上、飲料水も不足していたことから、7万人の大軍が南京城内に駐屯することになり、食糧の略奪が城内で行われることになった[47][46]。
12月12日に南京を陥落させた日本軍は、翌日から「残敵掃討」を開始した[48]。現地部隊が出した残敵掃討指示は「あらゆる手段を尽くして敵を殲滅」することを要求し、あるいは中国軍の残兵の大半が「便衣に化せると判断」し、また「青壮年は全て敗残兵または便衣兵と見なし」て逮捕監禁すべしとするもので、しかも実際には基本的に捕虜を取らない方針で行動していた[48]。当時の南京城内には難民区を除いてなお5万人以上の市民が残留していたと言われ、この残敵掃討作戦を現地で取材したジャーナリストは、彼らを巻き添えにした掃討を「うさぎ狩り」に例えた[49]。
捕虜の「解決」と民間人の殺傷[編集]
ハーグ陸戦条約の規定では戦意を喪失し組織的な行動能力を失った敗残兵に対しては降伏を勧告し捕虜として待遇する必要があった[50]。しかし、自軍の補給にも窮していた日本軍は制圧当初から全体として捕虜を殺害する方針で臨んでいた[50]。南京攻略戦に参加した第16師団の旅団長佐々木到一は当時の状況について次のような回想を残している。
この日、我が支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したものならびに各部隊の俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて二万以上の敵は解決されている筈である。(中略)午後二時ごろ、掃蕩を終わって背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門にいたる。その後、俘虜続々投稿し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとて「皆やってしまえ」と言いたくなる。白米はもはや一粒もなし、城内には有るだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我が軍には無い筈だった[51]。 — 佐々木到一
この証言のような状況は他の部隊でも同様に発生していたと見られる[52]。捕虜を取らないとするのは第16師団の方針であり[53][54]、12月13日に処理(殺害)された投降兵・敗残兵は第16師団のみで23,000人を超えた[55]。
12月14日、南京陥落を喜ぶ日本国内の世論の熱狂や昭和天皇による祝賀の「御言葉」の下賜があると、日本軍の司令部は12月17日に南京で入城式を執り行うことを決定した[56]。現地部隊は敗残兵の掃討まで時間が足りないことを主張したが、12月17日の入城式の挙行は強行されることとなった[57]。この結果、入城式の日程に合わせて12月14日から17日にかけて残敵の掃討が徹底的に行われることになった[58]。
第16師団以外のもの含め、日本軍各部隊が行った敗残兵・便衣兵の「掃討」では時期や部隊によって温度差があり、「良民」と「便衣兵」の選別が多少行われていた場合もあったが、十分な調査を行うような人員が存在しなかったためその選別は非常に荒っぽいものとなった[59]。秦郁彦はこの「良民」と「便衣兵」の選別について「選り分けるといっても、軍帽による日焼けの線(面ずれ)や目付で識別し、家族らしいものに泣きつかれると放してやる式のおよそ非科学的なやり方だったから、末端兵士の気分しだいで連行はふえも減りもしたようだ。こうした気まぐれな選別が、難民区の住民に与えた衝撃と恐怖感は想像に余りある[60]」と述べている。
南満州鉄道株式会社に務めていた小川愛次郎は南京における日本軍の軍紀退廃・虐殺について1938年7月27日、日本の外務大臣宇垣一成に宛てた「時局の動向と収拾策(講和大綱)」と題する意見書の中で次のように述べている[61]。
南京攻略戦とその後の占領に携わった日本の現地軍は上海派遣軍と第10軍であったが、上海派遣軍の第16師団、第9師団、第13師団山田支隊、第10軍の第6師団、第114師団について、それぞれの指揮下の部隊がどのように敗残兵・市民の殺害を行ったかについて秦郁彦が整理している[63]。
占領中の不法行為[編集]
占領後の南京城内および周辺地域では激しい略奪・放火が行われた。南京国際救済委員会の調査によれば、南京城内の建物73パーセントが日本軍による略奪の被害を受けた[64]。日本軍による略奪行為の実情は統計情報が残るようなものではないものの、当時南京に在住していた欧米人や日本兵の日記、戦後の証言などによって把握されている。第16師団長中島今朝吾は1937年12月19日の日記に以下のように記している[65]。
「日本軍が又我先きにと侵入し他の区域であろうとなかろうと御構いなしに強奪して往く。此は地方民家屋につきては真に徹底して居る。結局ずうずうしい奴が得というのである。」、「日本人は物好きである。国民政府(の建物)というのでわざわざ見物に来る。唯見物丈ならば可なるも何か目につけば直にカッパラッて行く。兵卒の監督位では何にもならぬ。堂々たる将校様の盗人だから真に驚いたことである。」、「最も悪質のものは貨幣略奪である。中央銀行の紙幣を目がけ到処の銀行の金庫破り専門のものがある[66]。 — 中島今朝吾
略奪された貨幣は兵営で日本円への換金が行われ、略奪品の一部は日本国内に転送された[67]。一連の日本軍による略奪はアメリカ大使館にまでおよんだ[65]。
また、入城式が行われた12月17日前後から日本兵による強姦事件が多発した[68]。日本軍による残敵掃討においては民家一軒一軒に侵入しての捜索が行われたが、その過程で発見された女性が頻繁に強姦・輪姦の被害にあい、酔っぱらった兵士による強姦事件も多発した[69]。恐怖にかられた女性たちが庇護を求めて逃げ込んだ先に金陵女子文理学院の難民キャンプがあり、これを運営していた欧米人が一連の事件について部分的な証言を残している[69]。南京国際救済委員会のメンバーとして活動したアメリカ人大学教授マイナー・S・ベイツは次のような手紙を残している。
有能なドイツ人の同僚たちは(安全区国際委員会委員長ラーベらのこと)強姦の件数を二万件とみています。私にも八〇〇〇件以下とは思われません。いずれにしても、それを上回る数でしょう。われわれ職員家族の若干と現在アメリカ人が住んでいる住宅を含めて金陵大学構内だけでも、一〇〇件以上の強姦事件の詳細な記録がありますし、三〇〇件ほどの証拠もあります。ここでの苦痛と恐怖はあなたにはほとんど想像できないでしょう。金陵大学構内だけでも、十一歳の少女から五十三歳になる婦人まで強姦されています。他の難民グループでは酷いことにも、七十二歳と七十六歳になる老婆までが冒されているのです。神学院では白昼、十七名の日本兵が一人の女性を輪姦しました。実に強姦事件の三分の一は日中に発生したのです[70]。 — マイナー・S・ベイツ
この強姦事件の頻発は日本軍首脳部も現地からの聞き取り等によって把握するところとなり対策が考えられた[71]。第10軍は12月20日に次のような通牒を発した。
掠奪婦女暴行、放火等の厳禁に関しては屡次訓示せられたる所なるも本次南京攻略の実績に徴するに婦女暴行のみにても百余件に上る忌むべき事態を発生せるを以て重複をも顧みず注意するところあらんとす[72]。 — 丁集参一第一四五号
しばらく時間を置き、1938年7月、第11軍司令官として上海に赴任した岡村寧次は宮崎周一参謀、原田棟少将らからの聞き取り結果として次のように回想している。
上海に上陸して、一、二日の間に...先遣の宮崎周一参謀、中支那派遣軍特務部長原田少将、抗州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
一、南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
一、第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある[73]。 — 岡村寧次
進軍中にも行われていた放火も各所で行われた。南京国際救済委員会の調査によれば、南京城内のメインストリート地区の建物2828棟の損傷のうち、軍事行動に起因するもの2.7パーセント、放火に起因するもの32.6パーセント、略奪に起因するもの54.1パーセントだとされる[74]。ニューヨークキリスト教青年国際委員会書記として南京に駐在していたジョージ・A・フィッチは東京裁判において日記に基づいて以下のように証言している[75]。
十二月十九日は全く無政府状態の一日であった。兵隊の手で放火された幾つかの大火が荒れ狂い、其後も尚多くの火事が約束されて居た。「アメリカ」の旗は多数の場所で引き裂かれた。軍当局は兵隊の統制が出来ない。
十二月二十日、月曜日、蛮行及び暴行が阻止されることも無く続行された。市街中最枢要の商店街、太平路は全く火災に包まれた。私は火を放つ前に店舗から取り出された掠奪品を積載した数多の日本軍貨物自動車を見受け、又兵隊の一団が建物に現実に放火して居るのを目撃した[76]。 — ジョージ・A・フィッチ
12月21日には南京在住の外国人が日本大使館に「市の大部分にたいする放火をやめ、残りの部分を、気まぐれからおこなわれたり、組織的におこなわれたりする放火から救うこと」を要望事項として提出した[75]。
日本軍による不法行為が一応の終息を見せたのは日本軍の下で中華民国維新政府が南京で設立された1938年3月28日になってからであった[77]。
南京城内の外国人と諸外国の反響[編集]
日本軍が南京に進軍する最中の1937年11月下旬、南京城内を東西南北に四等分したうちの西北部南半、南京城内の約8分の1の面積に相当する範囲に南京難民区(南京安全区、The Nangking Safety Zone)が設置された[78]。これは、ジーメンス社南京支社支配人であったドイツ人ジョン・H・D・ラーベを委員長とし、アメリカ聖公会伝道団宣教師だったジョン・マギー、アーネスト・フォスターや金陵大学の教授であったルイス・スマイス、マイナー・ベイツらアメリカ人を中心に南京に残留した22人の外国人によって立ち上げられた南京安全区国際委員会によって組織された[79][80]。ラーベが委員長に就任したのは、ドイツ人かつナチ党員であったことから、日本の当局と交渉がしやすいと考えられたためであった[81]。アメリカ人らは災害に対応した救援活動を通じて中国人の組織・指導のノウハウを持っており、南京市の行政的機能を引き継いで組織化することが可能であった[82]。
日本軍の侵攻に先だって行われた中国軍の焦土作戦(清野作戦)の結果、南京周辺地域の住民がこの南京難民区に殺到していた[83]。難民区に逃げ込む人々の数はラーベの想定を上回り、彼の証言によれば250,000人に達した[82]。12月12日になるとこの難民区には中国軍の敗残兵が武器・軍服を捨てて多数逃げ込んだ。南京安全区国際委員会のメンバーは市街戦を回避すべく彼らを武装解除して収容する場合もあったが、敗残兵が逃げ込んだことを把握した日本軍は難民区に対しても敗残兵狩りを実施した[84]。
この南京国際救済委員会のメンバーや南京で取材したジャーナリストら外国人が南京事件に関する最初期の情報源であった[85][86]。ニューヨーク・タイムスの記者ティルマン・ダーディンが12月17日、上海沖に停泊中のアメリカ軍砲艦オアフ (砲艦)から打電したレポートが、南京事件に関する第一報となった[87]。
「南京における大残虐行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民および外交人から尊敬と信頼を受けるわずかな機会を失ってしまった...」「中国政府機構の瓦解と中国軍の解体のため南京にいた多くの中国人は、日本軍の入城とともに確立されると思われた秩序と組織に、すぐにも応じる用意があった。日本軍が城内を制圧すると、これで恐ろしい爆撃が止み、中国軍から大被害を受けることもなくなったと考えて、中国人住民の間に大きな安堵の気持が広がった。歓呼の声で先頭の日本兵を迎えた住民もいた。
しかし日本軍が占領してから二日の間に事態の見通しは一変した。大規模な略奪、婦女暴行、一般市民の虐殺、自宅からの追い立て、捕虜の集団処刑、青年男子の強制連行が、南京を恐怖の町と化してしまった[88]。」 — ティルマン・ダーディン
このような初期の報道があったものの、南京事件についての欧米各国の反応は概して大きなものではなかった[80]。これはアジアでの出来事に対する欧米社会の関心の低さに加え、1937年12月12日に長江(揚子江)でアメリカ海軍の砲艦パナイ号が日本軍によって撃沈される事件(パナイ号事件)が発生したことに影響されていた[80][89]。この事件は最終的には日本とアメリカの間で外交的に決着されたものの、事件を通じて日本軍の南京占領に対するジャーナリストの取材活動が大きく阻害された他、パナイ号事件の報道が連日トップニュースとして掲載される一方、南京事件の報道は隅に追いやられ、世論の注目自体がパナイ号事件に集中することにもなった[90][注釈 8]。
しかし、南京事件に代表される日本軍による中国人大量殺戮の報道はアメリカにおける対日感情を悪化させ、「『非人道的野蛮行為』を平然とおこなう日本兵にたいする嫌悪・憎悪の感情を国民の間に醸成させ、それが日米開戦時の『敵国日本』のイメージを形成した側面もあった[94]」。ジョン・ラーベはドイツに帰国後、日本軍の行為についての講演を行いアドルフ・ヒトラーを始めとしたドイツの政府幹部へこの事件を報告したが、同盟国日本の戦争犯罪についての記述がヒトラーの怒りを買い逮捕された[94]。彼はその後、南京事件について発言しないことを条件に釈放されることになる[95]。
中国では口コミの形で広く中国人全体に知られることになり、また1938年7月に南京における日本軍の残虐行為の写真集『日寇暴行実録』が発行された[95]。とりわけ中国人女性に対する凌辱は日本に対する敵意を強く醸成し、抗日運動の活発化に繋がった[95]。
南京戦における日本軍の編成[編集]
南京攻略に参加した日本軍は、具体的には中支那方面軍隷下の上海派遣軍ならびに第10軍であった[25]。
日中戦争が始まって一月あまり経過した1937年8月11日、中国軍は主戦場を華北から華中に移すべく、上海に駐留する日本海軍陸戦隊への攻撃を指示した[96]。海軍陸戦隊の兵員4,000人に対し、中国軍は約30,000人であり、日本政府は陸軍部隊を増援として派遣することを決定した。この増援部隊が上海派遣軍(司令官:松井石根)であり、第3、第11師団を基幹とした[97]。その後、9月には第9、第13師団、第101師団、重藤支隊、野戦重砲兵第5旅団が順次増援として上海派遣軍に加わった[98]。
さらに10月には華北に展開していた部隊を引き抜き、第10軍が編成された(司令官:柳川平助)[98]。第10軍は第6、第18、第114師団と国崎支隊を基幹とし、11月5日に杭州湾に上陸して上海戦に参加した[99]。加えて第16師団が華北から転用されて上海派遣軍に加わり、11月13日に上海に上陸した[98]。上海戦末期の11月7日に上海派遣軍と第10軍を統括する中支那方面軍(司令官:松井石根、上海派遣軍司令官と兼任)が新たに編合された[100]。
この方面軍が上海戦の後、南京攻略へと向かうことになった。以下に秦郁彦のまとめに従って南京戦における日本軍現地部隊の編成をまとめる(1937年12月10日現在)。
- 中支那方面軍(司令官:松井石根大将、参謀長:塚田攻少将、参謀副長:武藤章大佐[101])
時系列[編集]
- 1937年7月7日:盧溝橋事件。日中戦争開始[109][110]。
- 1937年8月11日:蒋介石が上海に駐留する日本海軍陸戦隊への攻勢を指示[96]。
- 1937年8月13日:日中両軍が上海で戦闘開始、日本、陸軍の上海派遣が決定[109]。
- 1937年8月15日:日本、上海派遣軍を編組[109]、日本海軍、南京に初の空襲[14]。
- 1937年9月11日:日本、3個師団(第9、第13師団、第101師団)の上海派遣軍への増派を決定[109][98]。
- 1937年9月28日:石原莞爾少将、参謀本部第一部長から関東軍参謀副長に転出[111]
- 1937年10月20日:日本、第10軍を編成[109]。
- 1937年11月5日:第10軍が杭州湾に上陸、上海戦に参加[109]。
- 1937年11月7日:日本、上海派遣軍と第10軍を統括する中支那方面軍を編組[109]。
- 1937年11月13日:第16師団(上海派遣軍)が白茆江に上陸[109]。
- 1937年11月15日:第10軍、南京への追撃前進を独断決定、進撃を開始[112][113]。
- 1937年11月15日:中国、南京分散遷都を決議[109]。
- 1937年11月19日:日本、上海における予定の占領線(蘇州-嘉興)に到達[25][109]。
- 1937年11月20日:日本、大本営を設置[109]。
- 1937年11月22日:中支那方面軍司令官松井石根大将、南京進撃を参謀本部に意見具申[113]。
- 1937年11月25日:上海派遣軍、南京への進撃を開始[113]。
- 以降、進撃路・南京近郊の村々で日本軍による虐殺・略奪・強姦・放火等が発生[114]。
- 1937年11月28日:日本、参謀本部次長多田駿中将、南京攻略に同意[113]。
- 1937年12月1日:日本、大本営が南京攻略を命令[109]。
- 1937年12月2日:上海派遣軍司令官が朝香宮鳩彦王中将に交代[109]。
- 1937年12月4日:中支那方面軍、南京戦区に突入。日本近現代史学者笠原十九司は、この日前後を南京事件の開始とする[77]。
- 1937年12月10日:中支那方面軍、南京総攻撃開始[109]。
- 1937年12月12日:日本軍、アメリカ軍の砲艦パナイ号を撃沈(パナイ号事件)[115]。
- 1937年12月13日:中支那方面軍、南京占領[115]、「残敵掃討」を開始[48]。
- 1937年12月17日:中支那方面軍、南京で入城式を実施[115]。
- 1938年3月28日:日本軍による不法行為が一応の落ち着きを見せる。笠原十九司はこの日前後を南京事件の終了とする[77]。
事件を引き起こした要因[編集]
軍紀廃頽[編集]
南京事件を引き起こした原因は複数あった。まず大きな要因として挙げられるのが日本軍の軍紀廃頽である。軍の士気・軍紀にまつわる問題は指揮系統から末端の兵士の統制に至るまで様々に存在した。上海における中国軍の攻撃に対応するために1937年が8月15日に編組・派遣された上海派遣軍であったが、これを決定した参謀本部の意向としては、あくまで上海周辺の中国軍を排除し日本人居留民の安全を確保するための限定的な出兵であった[116]。しかし、上海派遣軍司令官の松井石根大将はこの限定的な作戦目標に当初より不満を示し、大規模な陸軍部隊の派遣によって迅速に南京を攻略して満州国と同種の新政権を中国に樹立することを主張していた[117]。その後、上海戦の予想外の苦戦のために日本軍は第10軍を加え、さらに11月には両軍の上位に中支那方面軍が置かれて松井石根が方面軍司令官を兼任した[118][100]。この処置は上海派遣軍と第10軍を統一指揮するための応急的なものであり、方面軍には兵器部・経理部・軍医部・法務部(軍法会議)等、一般的な事務部門が設置されておらず、司令官の指揮権限も限定的なものであった[119]。この変則的な構成のため、後々の作戦指揮・指導において中支那方面軍は権威を欠き、上海派遣軍や第10軍は方面軍の役割を調整程度にしか見なかった[119]。実務部門の欠如は南京占領前後における作戦指導に大きな問題をもたらした。中支那方面軍が作戦行動を支える兵站機関を備えておらず、また法務部門が欠如していたことは、この方面軍が麾下の軍に対する軍紀・風紀の取り締まりを行う実行能力を持っていなかったことを意味していた[118]。
南京攻略の意思決定過程[編集]
南京攻略を決定する日本軍の意思決定プロセスも南京事件の遠因となった。上海への派遣兵力は当初想定を超えて大規模なものとなっていた。この増援を決定する過程で、参謀本部において第一部長(作戦部)として上海の戦闘の不拡大を主張していた石原莞爾少将が主導権を失って事実上更迭され、後任には戦線拡大派の下村定少将が就任し、拡大派の武藤章大佐らが主導権を握った[19]。そして上海における戦闘が一段落した1937年11月上旬、武藤章大佐や塚田攻少将ら、拡大派の指揮官たちが中支那方面軍の幕僚として出向した[118]。激戦を経た上海派遣軍の士気低下・軍紀廃頽はこの時点で既に問題化しており、陸軍省など日本の陸軍中央部は上海戦の収拾を図った[21]。陸軍省軍務局軍事課長田中新一大佐は上海派遣軍の軍紀廃頽について以下のように記している。
軍紀廃頽の根元は、召集兵にある。高年次召集者にある。召集の憲兵下士官などに唾棄すべき知能犯的軍紀破壊行為がある。現地依存の給養上の処置が誤って軍紀破壊の第一歩ともなる。すなわち地方民からの物資購買が徴発化し、掠奪化し、暴行に転化するごときがそれである・・・補給の定滞(停滞)から第一線を飢餓欠乏に陥らしめることも軍紀破壊のもととなる。
軍紀粛正の道はそれらの全局面にわたって施策せられなければならないが、当面緊急の問題は、後方諸機関にある。後方諸機関の混乱は、動員編成上ならびに指揮系統上の見陥にももちろん起因するが、後方特設部隊の軍紀的乱脈が大問題である。
軍事的無知、無規律、無責任、怠慢など、およそ国体行動の要素は皆無というべく、これをこのまま放置しておいては全軍規律を同様せしめることにもなる。問題は制度や機構よりも人事的刷新にある[120]。」 — 田中新一
松井大将としては、南京攻略を切望す。目的は倒蔣・・・ただし、師団の現状では戦闘能力なかんずく攻撃能力に不足するものと、見あり。軍紀風紀の維持については、憂慮すべきもの多く、その原因の重大なるものは、指揮官各級ともに威力なきにあるといえる。軍再建に関する件
(1)情況上、整理可能なるに従って予後備兵の召集解除を行い、できるだけ速やかに平常の体制に移し、右による兵員の不足は、補充兵、新兵によって充足する。
(2)下士官の精違整理をおこない、かつ徹底せる短期再教育を行う。将校についても同断。右のほか、戦地教育の徹底をはかる[121]。」 — 田中新一
田中新一は武藤章らと同じく戦線の拡大を主張していたが、彼の目から見ても上海派遣軍の兵站・軍紀には重大な問題があることが明らかな状況であった[22]。しかし、この軍の再編処置は実行されなかった。11月15日、第10軍司令部は内陸への進撃を不可としていた陸軍中央の命令を無視し、撤退する中国軍を追撃して南京に進撃することを独断決定した[112][113]。この報告を受けた参謀本部次長多田駿中将は前進の停止を命令したが、11月20日に設置された大本営では下村少将らによって、南京その他を攻撃することも状況如何によってあり得るとして、なし崩し的に方針の中に組み込まれていった[122]。第10軍が南京への進撃を始めた直後、中支那方面軍司令官と上海派遣軍司令官を兼任していた松井石根大将も南京への進撃を参謀本部に意見具申した[123]。その後上海派遣軍も南京への突進を開始し、第10軍と上海派遣軍による先陣争いのような状況となった[注釈 12]。参謀本部・大本営は最終的に現地の状況を制御できず、11月28日には南京攻略を承認した[125]。このような意思決定のため、南京に向かう部隊は上海戦の損害を補充することもできず、また必要な兵站を殆ど欠いた状態で進軍することになった。これは日本軍の軍紀廃頽に拍車をかけ、また兵站のほとんどを現地調達に依存したことは略奪を拡大することになった[24][113]。
秦郁彦はこの状況について、「血気盛りの若い中隊長が功名心にはやるぐらいならともかく、二十万の大軍をひきいる軍司令官が、方面軍はもちろん中央の命令、方針を無視して、敵首都攻略を抜けがけしようというのである。軍紀・軍律を守れと部下兵士に要求するどころではない。それに南京までの四百キロの長距離急進を支える装備も補給の準備もなかった。さすがに幕僚会議では、兵士の多くが軍靴を持たず、地下足袋姿なので追撃は無理ではないか、という声もでたが、作戦主任参謀寺田雅夫中佐が、「地下足袋が破れたら手ぬぐいを巻いても前進できる。弾薬がなくても相手は支那軍、銃剣で足りる。神速なる追撃をやれば現地物資の徴発利用がかえって容易になる」(寺田「第十軍作戦指導ニ関スル考察」)と強気でまとめ、衆議一決したという[126]」とまとめている。
中国軍の焦土戦術[編集]
日本軍の南京進撃に先立ち、中国軍は12月7日から12月9日にかけて「清野作戦」を実行した。これは日本軍に遮蔽物として利用される可能性のある建物を焼却する焦土作戦であり、南京城壁周囲の居住区および南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家が焼払われた[47]。食糧物資を現地調達に依存していた日本軍はこの焦土戦術の結果、南京周辺で駐屯することができなくなり、南京城内に駐屯することになった(これは中支那方面軍の司令部からは厳禁されていた行動であった)[47][44]。南京市街でも軍政部や鉄道部などの主要建造物が焼却された[29]。また、南京防衛を巡る中国軍の方針が死守と撤退で一貫せず、防衛兵力を確保するために兵士の逃亡を防止する処置がとられていたことは、中国軍が実際に撤退する段階に入って多数の兵士が置き去りにされたり、逃走防止のための同士討ちをする事態を引き起こした[30]。日本近代史学者臼井勝美はこの状況を「中国人兵士および南京市民の悲劇は日本軍南京入城前に始まり、そしてさらに陰残な悲劇が日本軍入城後待ちうけていた[30]」と評している。
入城式の強行[編集]
南京での戦闘が完全には終わっていなかった12月14日から日本国内では南京占領を祝賀する各種行事や報道が広範に繰り広げられ戦勝ムードを盛り上げた[127]。現地軍の独断専行から始まった南京攻略戦であったが、昭和天皇から南京占領を喜ぶ「御言葉」も下賜され、南京占領は公式にも認められる戦果となっていった[127]。このような状況を受けた松井石根大将は12月17日に中支那方面軍の入城式を行う旨を上海派遣軍に通達した[128]。上海派遣軍の現地部隊は時期尚早として繰り返し延期を求めたが、松井大将は頑として12月17日の入城式実行を譲らなかった[128][129]。一方で上海派遣軍麾下の第16師団は12月15日には既に独自に入城式を行っており、現地軍の功績を横取りするような中支那方面軍の入城式に関する通達に強い不快感を示している[128][注釈 13]。
結局12月17日の入城式は強行されることとなったが、南京城内での戦闘はまだ散発的に発生しており治安が確立されていなかった。また多くの敗残兵が市民の中に紛れ込んだことが予想され、上海戦以来便衣兵の奇襲攻撃による損害を経験していた日本軍はこれに対する強い警戒心を持っていた。このため皇族である朝香宮鳩彦王(12月2日、上海派遣軍司令官に就任)の身の安全の確保やその他の不祥事を防ぐため、入城式の挙行に合わせて早急な治安回復が必要になると「疑わしいものはすべてその日のうちに始末する方針がとられた[130]」[131]。この結果、例えば南京の難民区における掃討を担当した第9師団などは、兵士と民間人を選別する余裕をもたなかったために成年男子のほとんどを便衣兵と見なして処刑するような事態となった[130]。
責任者の処罰[編集]
第二次世界大戦終結時まで、日本において南京事件が公式に問題として取り扱われることがなかったため、一連の虐殺・不法行為に関連する責任が問われたのは戦後に連合国によって開催された極東国際軍事裁判(東京裁判)と、中華民国で開催された南京軍事法廷によってである。第二次世界大戦後に日本の戦犯を裁いたこれらの裁判では、戦犯とされた人々が種別によってA級戦犯とBC級戦犯に区別された[132]。このA級、B級、C級という用語は、先行してナチス・ドイツの戦争犯罪を裁くために開催されたニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章の第6条において戦争犯罪の類型が(a)平和に対する罪(b)戦争犯罪(c)人道に対する罪に区分されていたものを適用したものであり、A級がBC級より重大であるというような序列を示すものではない[133]。日本においては東京裁判の被告が即ちA級戦犯であると言え、BC級戦犯は各国で開催された法廷で審理された[132][12]。南京事件を取り扱ったのが南京軍事法廷である。
東京裁判においては、南京事件(南京およびその周辺における市民・捕虜の虐殺)が事実であると判断され、中支那方面軍司令官であった松井石根大将が絞首刑となった[6]。松井大将の責任に対する判断は以下のようなものである。
「日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は二十万以上であった」「自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもっていたとともに、その権限をももっていた。この義務を怠ったことについて、かれは犯罪的責任がある」[134]。 — 東京裁判
また、南京軍事法廷において次の4名が死刑となった[13]。
東京裁判では南京事件について処断されたのは松井石根大将一人であり、実質的に彼が南京事件の責任を負う形となった[135]。また、南京事件についてBC級戦犯として訴追されたのはこの4名だけであった[136]。秦郁彦は「東京裁判に先立って軍事法廷が起訴した戦犯が一五〇八名もいたのに、南京事件に対する起訴者がわずか四人にすぎなかったのは、いかにも不自然」としてその要因を次のようにまとめている[136]。まず、東京裁判から見て8年前の事件容疑者を特定し確認することが技術的に困難であったことがある。その後の戦争で南京戦に参加した兵士たちは各地に移動してしまっており、戦死している者も多く、当時の所属部隊を特定するのも難しかった上、指揮官クラスにも死者が多かった[136]。第2に終戦直後から中国で始まった国共内戦の結果、中国において十分な調査を行う余裕が無かった[136]。最後に、東京裁判は基本的にアメリカのペースで進められたが、アメリカは日本軍の毒ガス・細菌戦の方を重視し南京事件に力点をおかなかった[136]。これらの要因から、南京軍事法廷で裁かれた南京事件のBC級戦犯は、谷寿夫中将以外は実際の責任の所在というよりも中国における知名度によって選別されたものであった。田中軍吉大尉は1940年に日本国内で「三百人斬り」の勇士として、向井敏明少尉と野田穀少尉も「百人斬り」の英雄として日本国内のマスコミで紹介されていた[137]。結果として、彼らは名前が知られていたために「不特定多数の犯人の代表として」裁かれる形となった[138]。
南京事件の史料[編集]
一般に大規模な虐殺や戦争犯罪において、正確な犠牲者の数を割り出すことには多くの困難が伴う。これは南京事件においても例外ではなく、歴史学者が実証的見地から使用することのできる南京事件(南京大虐殺)の史料には多くの制約がある[85]。この事件についての主たる情報源は次のようなものに分類される。
- 第三者(ジャーナリストや南京国際安全区にいた外国人)の報道・証言
- 被害者の証言
- 加害者の証言
このうち、第三者による証言は南京事件を報告する最も早い記録であった[85][86]。ジャーナリストによる記録は日本軍による南京占領のあと一週間以内に伝えられており、ニューヨーク・タイムズやシカゴ・デイリーニュースに掲載された[139]。外国人のジャーナリストは1937年12月16日にAP通信の記者が離れて以降、数か月にわたって南京には一人もいない状態になったが[139][80]、南京国際安全区にはその後も二十数名の欧米人が残留しており、彼らの証言や記録も当時の状況を知るための重要な史料になっている[139][80]。これらは直接日本軍の行動を目撃した人々が間を置かずに記録した史料として重要であるが、限定的な情報でもある。歴史学者楊大慶はこうした欧米人による証言の限界について「第三者の観察者としてこれらの人たちは、日本軍兵士、場合によっては中国軍兵士が加えた残虐行為や損害について説得力ある情報を提供した。しかし、この種類の証拠には限界もある。(中略)残留した欧米人二十四、五人-大部分が安全区内に残っていた-は、何十万という住民がいるより広い地域でその後実際に起こったことのほんの一部分を目撃したにすぎない」[139]。
被害者の証言も重要な情報源である。しかし、当然ながら死者が証言を残すことはなく、生存した者だけが証言を残すことが可能である[139]。こうした証言のうち最も早いものは、日本軍の占領から数ヶ月後に南京を脱出した一部の人々の証言が中国語新聞に掲載されたものである[139]。しかし、南京で生き残った人々はその後、日本軍の占領下で生活することを余儀なくされており、彼らが公然と日本軍の残虐行為について語ることが可能になったのは事件から第二次世界大戦の終了まで8年弱にわたる時間的懸隔を置いた後であった[139]。これらの証言の中でも早期のものは東京裁判や南京軍事法廷に提出された。しかし戦争犯罪の被害者たちが必ずしも積極的に証言を行うことを望んだわけではなく、とりわけ強姦の被害者とその親族は証言を拒否することが多かった[140]。さらにその後成立した中華人民共和国では、1950年代と60年代に生存者たちに面接調査が行われ、1971年以降、朝日新聞記者本多勝一による大規模な面接調査が行われて被害者の証言が集められた[140]。中国で本格的に歴史上の証拠として被害者の証言が収集されたのは1980年代以降になってからである[140]。
加害者、即ち日本軍の関係者による証言は、少数の例外を除いて1950年代以降になってから得られたものである[141]。これは同時代においては日本の戦時検閲制度によって南京における日本軍の犯罪についての情報が統制されていたこと、また戦後連合軍が収集した日本側文書の中にも南京攻略戦に関わるものがほとんど無かったことによる[141]。その後、市民グループや関係者によって旧日本兵の日記や日誌などが収集されるなどして加害者の証言も得られ始めた。このため日本軍関係者による証言文書は「歴史上の証拠という点から言えば、それは、戦後の戦犯裁判が始まって以来最も重要な新しい状況である[141]」。しかし、楊大慶によれば南京攻略戦に参加した日本軍部隊の陣中記録の30パーセント弱が突き止められたに過ぎないという[142]。とりわけ、重要な役割を果たした将校たちは南京事件に関して「いかなる『文書足跡』も残さなかった[141]」。
犠牲者数[編集]
大きな史料的制約によって、南京事件において、あるいは日本軍の南京占領に関連して発生した虐殺の犠牲者の正確な数は今日では完全に特定することは不可能になっている[143][144]。日本の研究者の間では数万人から10数万人とする者が多い[5]。日本近代史学者秦郁彦は38,000人から42,000人[注釈 14]、中国近現代史学者の笠原十九司は10数万以上、20万人近いかあるいはそれ以上[146]、という推定を出している。中国では30万人という説が主流であり、南京の南京大虐殺記念館の正面入り口にもこの数字がかかれている[5]。
南京事件を扱った作品[編集]
小説[編集]
- 阿壠(アーロン)『南京』(1939年)『南京血祭』と改題され1987年刊行。邦訳関根謙訳『南京慟哭』五月書房 (1994) 。
- 三島由紀夫『牡丹』(1955年)
- 堀田善衛『時間』(1955年)
- 佐々木譲『エトロフ発緊急電』(1989年)
- R. C. Binstock,Tree of Heaven,CreateSpace Independent Publishing Platform (1995)
- Paul West,Tent of Orange Mists,Scribner,1995 (Overlook Books,1997)
- アイリス・チャン『ザ・レイプ・オブ・南京』 (1997、Basic Books) [147]
- 山本弘『神は沈黙せず』(2003年) - 作中人物が論争する描写があるSF小説
- 村上春樹『騎士団長殺し』(2017年)
映画[編集]
戦時中の記録映像による映画[編集]
- 『南京』(日本、1938年) - 南京陥落翌日昼から翌年1月上旬までの間に南京城内外を撮影したが、南京事件の場面はない。撮影者による、見たもの全部を撮ったわけではなく撮った中にも切られたものがあるとの証言がある。
- 『ザ・バトル・オブ・チャイナ』(米国、1944年) - 南京事件が映されているが米中のプロパガンダによる誇張説がある。
- 『中国之怒吼』(中華民国、1945年) - 『ザ・バトル・オブ・チャイナ』を編集したもの。
日本映画[編集]
- 『戦争と人間 第三部 完結編』(日本、1973年)
- 『未完の対局』(日本・中国合作、1982年)
- 『南京 引き裂かれた記憶』(日本、2007年)※ドキュメンタリー映画
- 『南京の真実 第1部「七人の死刑囚」』(日本、2008年)
- 『南京の真実 第3部「支那事変と中国共産党」』(日本、2017年)
中華圏映画[編集]
欧米映画[編集]
- 『ラストエンペラー』(イタリア・イギリス・中国、1987年)
- 『南京』(米国、2007年)※ドキュメンタリー映画
- 『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥かなる希望の道』(オーストラリア・中国・ドイツ、2008年)
- 『ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜』(ドイツ・フランス・中国、2009年)
テレビドラマ[編集]
- 『山河燃ゆ』(日本、1984年)
漫画[編集]
- 『国が燃える』(本宮ひろ志、集英社、2002 - 2005年)
- 『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(小林よしのり、幻冬舎、1998年)
- 『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論2』(小林よしのり、幻冬舎、2001年)
- 『マンガで読む昭和史「南京大虐殺」の真実』(畠奈津子 + 大舘亞津子、ワック、2007年)
- 尼克·梅兰德,周宗凯、周渭淙画、『南京1937』四川少年儿童出版社.英語表記: Nick Melander,Zhou Zongkai,Nanking 1937,2014年(2011年11月にフランスとベルギーで刊行[148]) - 夏淑琴やジョン・ラーベ日記を描写[149]。
- イーサン・ヤング (Ethan Young) 「Nanjing: The Burning City」アメリカ合衆国、ダークホース社 (Dark Horse Originals) 、2015年9月1日刊
音楽[編集]
- エクソダス『Nanking』(2010年 アルバム「Exhibit B: The Human Condition」収録)
脚注[編集]
注釈[編集]
- ↑ 東京裁判判決では20万人以上とされている[6]。
- ↑ 2000年時点
- ↑ ジョージ・ワシントン大学教授[注釈 2]の歴史学者楊大慶(Daqing Yang)は名称を巡る議論について次のようにまとめている。「一九三七年の議論をどう呼称するかについて合意がないということは、言語上の問題の一つの反映である。初めは中国で使われ、その後、日本、その他の国でも使われている『南京大屠(虐)殺』という語は、それが南京での事件の内容をどのように限定しているかを示している。大屠(虐)殺という語は、強姦や略奪や放火を軽く見ている語ではないだろうか。それはたんに虐殺だったのだろうか、それとも大虐殺だったのだろうか。他方、日本では、さまざまな文筆家によって『南京事件』という語が使われてきたが、しかし、他の国ぐにではそれは、一九三七年の恐怖に、ありふれた事件であるかのような響きを与えるものだとして多分に批判をまねいている[7]」
- ↑ 引用は笠原十九司『南京事件』72頁より。ほとんど同文の評は吉田裕『もうひとつの日中戦争史、天皇の軍隊と南京事件』にも見られる。以下は吉田の評の引用である。「上海攻略後、南京に向かう追撃戦の全過程は、すでに上海戦の段階で顕著になっていたさまざまな不法行為、残虐行為がより大規模な形で拡大される過程であり、南京事件の直接の前史をなす過程でもあった[26]。」
- ↑ 原文のカタカナ表記をひらがなに改めた。
- ↑ このような行軍中の虐殺行為には様々な証言がある。歩兵第20連隊の上等兵牧原信夫の陣中日記は以下のような記述を残す。「(十一月二二日)道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見ずらい様子でのびていたのも可愛想である。橋の付近には五、六個の支那軍の死体がやかれたり、あるいは首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校がためし切りをやったそうである。(十一月二六日)午前(原文注:午後の誤り)四時、第二大隊は喚声をあげ勇ましく敵陣地に突撃し、敵第一線を奪取。住民は家をやかれ、逃げるに道なく、失神状態で右往左往しているのもまったく可愛想だがしかたがない。(十一月二七日)支那人のメリケン粉を焼いて食う。休憩中に家に隠れていた敗残兵をなぐり殺す。支那人二名を連れて十一時、出発す。...鉄道路線上を前進す。休憩中に五、六軒の藁ぶきの家を焼いた。炎は天高くもえあがり、気持ちがせいせいした。(十一月二八日)午前十一時、大隊長の命令により、下野班長以下六名は小銃を持ち、残敵の掃討に行く。その前にある橋梁に来たとき、橋本与一は船で逃げる五、六名を発見、照準をつけ一名射殺。掃討はすでにこの時から始まったのである。自分たちが前進するにつれて支那人の若い者が先を競って逃げて行く。何のために逃げるのかわからないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。部落の十二、三家に付火すると、たちまち火は全村を包み、全く火の海である。老人が二、三人いて可愛想だったが、命令だから仕方がない。次、次と三部落を全焼さす。そのうえ五、六名を射殺する。意気揚々とあがる。(十一月二九日)武進(常州市に属する)は抗日、排日の根拠地であるため全町掃討し、老若男女をとわず全員銃殺す。敵は無錫の線で破れてより、全く浮足立って戦意がないのか、あるいは後方の強固な陣地にたてこもるのかわからないが、全く見えない[38]。」
- ↑ 秦郁彦が引用する日本の外交官日高信六郎の東京裁判での証言によれば12月17日時点で憲兵14人、数日中に補助憲兵40人が得られるはずという状況であった。秦郁彦は上海派遣軍と第十軍を合わせて、南京占領直後に城内で活動していた日本軍の正規の憲兵は30人を越えなかったと推定している[46]。
- ↑ 笠原十九司によれば、当時の駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーは日記においてパナイ号事件によって日米の国交断絶を覚悟したと記している。日米開戦にも繋がりかねないこの事件を巡る交渉の方に注目が集中したのは自然の成り行きであった[91]。また、パナイ号はジャーナリストの一時待機所になっており、日本軍の南京占領直前までに行われた取材活動の資料などはパナイ号と共に失われた[92]。パナイ号事件を研究するアメリカの研究者の間では、この事件は真珠湾攻撃に至る日米開戦への転機と位置付けられている[93]。
- ↑ 1937年12月2日に松井石根大将から交代。
- ↑ 1937年12月28日、稲葉四郎中将に交代。
- ↑ 海軍
- ↑ これについて秦郁彦は「松井大将は元来が南京攻略論者だったし、上海派遣軍をひきいる立場から第十軍とのライバル意識を刺激されたのかもしれない」と評している[123]。また、笠原十九司は現地入りしていた武藤章が南京進撃を成功させるために、第10軍(第6師団)の急進撃と戦果を称える一方で上海派遣軍(第16師団)の戦果をこき下ろすような電報を第16師団宛てに送り、第10軍と上海派遣軍の南京一番乗り競争を煽ったことを指摘している[124]
- ↑ 南京攻略戦の際、中支那方面軍司令官であった松井石根大将は病気と疲労のため蘇州司令部におり、南京攻略戦自体には参加していなかった[128]。
- ↑ 兵士30,000人、一般市民8,000人から12,000人の合計。これはルイス・S・C・スマイスによる民間慈善団体の紅卍字会および崇善堂の死体埋葬記録の調査で得られた数字を参考に調整したものである[145]。
出典[編集]
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- ↑ 吉田 (1985)、80-82頁
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- ↑ 吉田 (1985)、81頁より孫引き引用。旧仮名遣いを現代式に改めた。
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- ↑ a b 笠原 (1997)、83頁
- ↑ 笠原 (1997)、88頁より孫引き引用(一部抜粋)
- ↑ 吉田 (1985)、93頁
- ↑ 吉田 (1985)、88頁
- ↑ 吉田 (1985)、87-89頁
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- ↑ 笠原 (1997)、145頁
- ↑ a b 笠原 (1997)、153頁
- ↑ 笠原 (1997)、153-154頁および秦 (2007)、116頁引用より孫引き。原文は旧仮名遣いであるが、笠原引用では現代文に直されている。
- ↑ 秦 (2007)、116頁
- ↑ 笠原 (1997)、154頁
- ↑ 秦 (2007)、117頁
- ↑ 笠原 (1997)、155頁
- ↑ 笠原 (1997)、164頁
- ↑ 笠原 (1997)、166頁
- ↑ 笠原 (1997)、167頁
- ↑ 秦 (2007)、132-135頁
- ↑ 秦 (2007)、134頁
- ↑ 吉田 (1985)、148頁
- ↑ 吉田 (1985)、148頁の引用より孫引き。引用元は旧字旧仮名遣いカタカナ表記。いずれも現代文に改めた。強調は原文ママ、ただし吉田による強調は太字ではなく傍点。
- ↑ 秦 (2007)、112-160頁
- ↑ 笠原 (1997)、217頁
- ↑ a b 吉田 (1985)、150頁
- ↑ 吉田 (1985)、150頁の引用より孫引き。引用元は旧字旧仮名遣いカタカナ表記。いずれも現代文に改めた。「かっぱらっテ」のみは吉田による引用が平仮名であるが、ここでは逆にカタカナに改めた。
- ↑ 吉田 (1985)、151-152頁
- ↑ 笠原 (1997)、193頁
- ↑ a b 笠原 (1997)、194-200頁
- ↑ 笠原 (1997)、199頁の引用より孫引き。
- ↑ 吉田 (1985)、157頁
- ↑ 吉田 (1985)、157頁の引用より孫引き。引用元は旧仮名遣いカタカナ表記。いずれも現代文に改めた。
- ↑ 吉田 (1985)、157頁の引用より孫引き
- ↑ 秦 (2007)、201頁
- ↑ a b 吉田 (1985)、154頁
- ↑ 吉田 (1985)、154頁の引用より孫引き
- ↑ a b c 笠原 (1997)、215頁
- ↑ 笠原 (1997)、172頁
- ↑ 笠原 (1997)、172, 202頁
- ↑ a b c d e 秦 (2007)、6頁
- ↑ 笠原 (1997)、129, 172頁
- ↑ a b 笠原 (1997)、173頁
- ↑ 笠原 (1997)、129頁
- ↑ 笠原 (1997)、174頁
- ↑ a b c 楊 (2000)、173頁
- ↑ a b 秦 (2007)、2頁
- ↑ 秦 (2007)、3頁
- ↑ 秦 (2007)、2-3頁の引用より孫引き
- ↑ 笠原 (1994)、74-78頁
- ↑ 笠原 (1994)、79頁
- ↑ 笠原 (1994)、80頁
- ↑ 笠原 (1994)、73頁
- ↑ 笠原 (1994)、71頁
- ↑ a b 笠原 (1997)、230頁
- ↑ a b c 笠原 (1997)、231頁
- ↑ a b 秦 (2007)、58頁
- ↑ 秦 (2007)、60頁
- ↑ a b c d 秦 (2007)、63頁
- ↑ 秦 (2007)、64頁
- ↑ a b 秦 (2007)、73頁
- ↑ 秦 (2007)、330
- ↑ a b 秦 (2007)、331頁
- ↑ a b 秦 (2007)、333頁
- ↑ a b 秦 (2007)、332頁
- ↑ a b 秦 (2007)、334頁
- ↑ a b 秦 (2007)、335頁
- ↑ a b 秦 (2007)、336頁
- ↑ a b c d [[#秦 (2007)|秦 (2007)、337頁
- ↑ a b c d e f g h i j k l m n 秦 (2007)、328頁
- ↑ 臼井 (2000)、66頁。
- ↑ 笠原 (1997)、58頁
- ↑ a b 笠原 (1997)、66頁
- ↑ a b c d e f 秦 (2007)、75頁
- ↑ 笠原 (1997)、74-106頁
- ↑ a b c 秦 (2007)、329頁
- ↑ 笠原 (1997)、50頁
- ↑ 笠原 (1997)、51-52頁
- ↑ a b c 笠原 (1997)、60頁
- ↑ a b 秦 (2007)、73-74頁
- ↑ 笠原 (1997)、p. 62-63頁の引用より孫引き
- ↑ 笠原 (1997)、p. 63-64頁の引用より孫引き
- ↑ 笠原 (1997)、68頁
- ↑ a b 秦 (2007)、76頁
- ↑ 笠原 (1997)、70頁
- ↑ 秦 (2007)、77頁
- ↑ 秦 (2007)、p. 75頁
- ↑ a b 笠原 (1997)、163頁
- ↑ a b c d 笠原 (1997)、165頁
- ↑ 秦 (2007)、104頁
- ↑ a b 秦 (2007)、105頁
- ↑ 笠原 (1997)、179頁
- ↑ a b 日暮 (2008)、18-20頁
- ↑ 日暮 (2008)、20-22頁
- ↑ 秦 (2007)、44頁の引用より孫引き。
- ↑ 秦 (2007)、43頁
- ↑ a b c d e 秦 (2007)、47頁
- ↑ 秦 (2007)、48-50頁
- ↑ 秦 (2007)、50頁
- ↑ a b c d e f g 楊 (2000)、174頁
- ↑ a b c 楊 (2000)、175頁
- ↑ a b c d 楊 (2000)、176頁
- ↑ 楊 (2000)、177頁
- ↑ 笠原 (1997)、218頁
- ↑ 秦 (2007)、207頁
- ↑ 秦 (2007)、214頁
- ↑ 笠原 (1997)、227-228頁
- ↑ Chi-Wei Manは,The Rape of Nanking vs. The Incident of Nanking: A Literature Review,in Momentum,Vol. 1: Iss. 1, Article 9,the University of Pennsylvania,2012.で「novel」としている。
- ↑ 新華社 「(國際)中法主創人員推介漫畫書《南京1937》」Oct 29, 2014
- ↑ 東網「国内首部南京大屠杀漫画《南京1937》出版」2014年11月10日(一) 17:50.重慶日報「国内首部讲述南京大屠杀的漫画书《南京1937》」2014年11月10日
参考文献[編集]
- 臼井勝美 『新版 日中戦争 和平か戦線拡大か』 中央公論社〈中公新書〉、2000年。ISBN 978-4-12-101532-7。
- 笠原十九司 『アジアの中の日本軍 戦争責任と歴史学・歴史教育』 大月書店、1994年。ISBN 4-272-52034-2。
- 笠原十九司 『南京事件』 岩波書店〈岩波新書〉、1997年。ISBN 4-00-430530-6。
- 「南京事件」『現代アジア事典』 重村達郎、文眞堂、2000年5月。ISBN 978-4-8309-4649-3。
- 秦郁彦 『南京事件―「虐殺」の構造』 中央公論社〈中公新書〉、1986年。ISBN 4-12-100795-6。
- 秦郁彦 『南京事件―「虐殺」の構造(増補版)』 中央公論社〈中公新書〉、2007年。ISBN 978-4-12-190795-0。
- 原剛 「南京虐殺事件」『世界戦争犯罪事典』 秦郁彦・佐瀬昌盛・常石敬一、文藝春秋、2002年8月。ISBN 4-16-358560-5。
- 日暮吉延 『東京裁判』 講談社〈講談社現代新書〉、2008年。ISBN 978-4-06-287924-8。
- 吉田裕 『天皇の軍隊と南京事件』 青木書店、1985年12月。ISBN 978-4-250-98019-0。
- 『歴史学のなかの南京大虐殺』 ジョシュア・A・フォーゲル、岡田良之助訳、2000年5月。ISBN 978-4-7601-1920-2。
- 楊大慶 「4章 南京大虐殺の課題 - 歴史研究についての考察」『歴史学の中の南京大虐殺』 柏書房、2000年5月。ISBN 978-4-7601-1920-2。
関連項目[編集]
- 極東国際軍事裁判(東京裁判)
- 中華民国維新政府
- 南京事件論争 - 南京事件論争史 - 南京事件の証言 - 南京事件の被害者数
- 南京安全区国際委員会 - 世界紅卍字会
- ヴォートリン - 夏 - スノー - ティンパーリ - フィッチ - ベイツ - マギー - ラーベ
- 挹江門事件(南京戦中の中国軍の同士討ち)
- 南京大虐殺紀念館 - 国軍歴史文物館
- 歴史修正主義 - 否認主義
- 自虐史観(日本悪玉史観) - 反日主義
- 推定有罪
- 日本の戦争犯罪
- 通州事件 - 尼港事件 - 済南事件 - 通化事件
- 黄河決壊事件
外部リンク[編集]
- 極東国際軍事裁判記録国会図書館。
- A級極東国際軍事裁判記録(和文)NO.1、国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコード A08071274100
- Judgment International Military Tribunal for the Far East
- TOKYO WAR CRIMES TRIAL DIGITAL COLLECTIONバージニア大学(徐淑希編『南京安全区攩案』)
- Documents of the Nanking Safety Zoneブリティッシュコロンビア大学
- 30万人遇难!审判“定性”南京大屠杀真相人民法院报2015年9月3日[第39・40版]
- 歴史問題Q&A 問6.「南京大虐殺」に対して、日本政府はどのように考えていますか。(外務省)
- 日中歴史共同研究 (全体説明)
- 南京問題小委員会の調査検証の総括 - 日本の前途と歴史教育を考える議員の会(戸井田徹)