今村均

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今村 均(いまむら ひとし、明治19年(1886年6月28日) - 昭和43年(1968年10月4日)は、日本陸軍軍人。第5師団長、教育総監部本部長、第16軍司令官、第8方面軍司令官などを歴任。最終階級は陸軍大将。日本軍が占領したインドネシアで寛容な統治政策を執ったことで知られる。

経歴[編集]

宮城県出身。陸軍士官学校に進み19期卒業。その後陸軍大学校に進学し27期卒業。兵科は歩兵。 参謀本部作戦課長時代の1931年(昭和6年)に起ったクーデター未遂事件十月事件ではクーデター阻止の為尽力する。1936年(昭和11年)には関東軍参謀副長兼駐満州国付陸軍武官として満州国に赴任し、関東軍が軍中央の統率に従うように尽力する。 1940年(昭和15年)には教育総監本部長に就任。東条英機陸軍大臣のもと戦陣訓作成に関わる。 太平洋戦争開戦前の1941年(昭和16年)11月には第16軍司令官に就任し。開戦後の1942年(昭和17年)1月11日に、当時オランダが植民地支配していたオランダ領東インド(現在のインドネシア)攻略を開始する。蘭印作戦。油田地帯の占領を優先しボルネオ島カラタン・バルクパパン、スマトラ島のパレンバンを落下傘部隊で制圧する。この落下傘部隊が後に空の神兵と謳われる。バリ島ティモール島も占領し、3月1日にはオランダ軍主力が置かれているジャワ島に今村自身が兵を率いて上陸する。3月8日には蘭印の首都バタビア(ジャカルタ)を占領。蘭印軍約9万人は無条件降伏し、蘭印作戦を成功した。その後軍政を開始し、陸軍省からの圧力があるなか、現地住民に寛容な政策を実施した。

1942年(昭和17年)には第8方面軍司令官としてラバウルに赴任。現地では耕作を指揮し、自給自足体制を整え米軍の上陸に備えたが、米軍は苦戦が予想されるラバウルを空襲のみの攻撃とし、上陸は行わなかった。飛び石作戦

戦後はオランダ軍による裁判では無罪、オーストラリア軍による裁判で禁固10年となり、巣鴨拘置所に送られたが、部下が多数収容されているマヌス島での服役を希望し、許可された。1954年(昭和29年)釈放。

略歴[編集]

  • 1927年(昭和2年)4月9日-印度駐箚武官
  • 1927年(昭和2年)11月15日-軍務局課員
  • 1930年(昭和5年)8月1日-陸軍大佐に昇進。軍務局徴募課長
  • 1931年(昭和6年)8月1日-参謀本部作戦課長
  • 1932年(昭和7年)2月10日-参謀本部付(上海出張)
  • 1932年(昭和7年)4月11日-歩兵第57連隊長
  • 1933年(昭和8年)8月1日-陸軍習志野学校幹事
  • 1935年(昭和10年)3月15日-陸軍少将に昇進。歩兵第40旅団長
  • 1936年(昭和11年)3月23日-関東軍参謀副長兼駐満州国付陸軍武官
  • 1937年(昭和12年)8月2日-陸軍歩兵学校幹事
  • 1938年(昭和13年)1月27日-兵務局長
  • 1938年(昭和13年)3月1日-陸軍中将に昇進
  • 1938年(昭和13年)11月21日-第5師団長
  • 1940年(昭和15年)3月9日-教育総監部本部長
  • 1941年(昭和16年)6月28日-第23軍司令官
  • 1941年(昭和16年)11月6日-第16軍司令官
  • 1942年(昭和17年)11月9日-第8方面軍司令官
  • 1943年(昭和18年)5月1日-陸軍大将に昇進