南京

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南京(なんきん)とは、現在の中華人民共和国華中地区江蘇省省都である。江蘇省の南西部に位置し、上海の北西260キロメートルの長江東岸の標高12メートルに位置する。市の人口2000年の時点で238万9000人。略称は寧。日本千葉県佐原市愛知県名古屋市姉妹都市提携を結んでいる。都市名は「南の都」を意味する。

武漢成都と共に中国三大火炉と呼ばれての暑さには定評がある。

歴史[編集]

西晋の時代まで[編集]

  • 春秋時代に建設された古都である。長江沿岸に位置する天然の要害で、後漢末期までは金陵(きんりょう)と呼ばれた。
  • 三国志の時代、孫権が首都に定めたことから、都市としての機能を急速に高めてゆく。
  • 孫権はこの際、都市を建業(けんぎょう)と名付けた。
  • 三国志の終了後、統一を果たした西晋八王の乱永嘉の乱で大いに乱れ、特に後者の反乱で西晋最後の皇帝愍帝(司馬鄴)が異民族が建国した漢(前趙)のために殺害されると、西晋皇族の生き残りである琅邪王・司馬睿司馬懿の4男・司馬伷の孫)が華南に逃れて東晋を建国する。この際に建業は愍帝の名である司馬「鄴」と重なることから避けるため、建康(けんこう)と改名された。

元の時代まで[編集]

  • 以後、東晋をはじめ、中国南部を支配する歴代王朝の首都に定められる。北方が五胡十六国時代という異民族の王朝のために大いに乱れていたこともあり、北方の漢民族は南を目指して逃れる例も少なくなく、人口の増加から経済的にも政治的にも発展して、の時代までには華南を代表する都市のひとつにまで成長していた。
  • 唐の滅亡後、五代十国時代には地方政権である南唐の首都に定められ、その下で大いに繁栄を遂げた。
  • ただ、この都市は文化的にも経済的にも政治的にも大いに繁栄を遂げ、華南も大いに発展したにも関わらず、この都市を首都として支配下に置いた王朝はいずれも短命に終わり、統一を果たすこともできていない。最も長いのは東晋であり、後は精々100年足らずの短命政権で終焉している。

明の時代[編集]

  • そのくびきを脱したのが末期に紅巾の乱の群雄の中から台頭した朱元璋であり、彼はこの都市を応天府(おうてんふ)と名付けてを建国し、ここを同国の首都に定めた。
  • そして、朱元璋とその跡を継いだ孫の建文帝はここを首都とした。
  • しかし、靖難の変で建文帝を倒した永楽帝こと朱棣は1421年に首都を北京に遷したため、南京は首都としての機能を失った。

清の時代[編集]

  • 後にの支配下に入り、清が衰退して太平天国の乱が発生すると、華南の大半は太平天国の支配下に入り、南京は同国の首都に定められて名も天京(てんきん)と改められた。
  • 1864年に太平天国が滅亡すると、再度清の支配下に入る。

中華民国の時代[編集]

  • 1911年辛亥革命が発生すると革命勢力の臨時政府が置かれて事実上、中華民国の首都となった。
  • 中華民国の実権が孫文から袁世凱に移ると、袁世凱は首都を北京と定めたため、再度南京は首都としての機能を失った。
  • 袁世凱の死後、同国が軍閥の乱立により乱れると、孫文の死後に政権を掌握した蒋介石により1927年国民政府が置かれ、市に昇格して首都として繁栄を遂げた。*しかし1937年から日中戦争が始まると、南京は日本の支配下に入る。
  • 1937年12月、この都市において日本軍が5日間をかけて南京大虐殺を行なったとされ、総数30万人が殺害されたとする説があるが、当時の南京の人口は20万人程度であったため、これが信頼できる判決ではない可能性がある。[1][2]これは虐殺された数については諸説があり、現在まで定説はない。

中華人民共和国の時代[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]