朝鮮
朝鮮(ちょうせん,Joseon)は1392年から1897年まで朝鮮半島を支配した統一国家である。日本では「李氏朝鮮」(または李朝)と呼ぶが、韓国では李氏朝鮮とは言わない。李成桂の立てた国は「朝鮮」の名称であり、古代の朝鮮[注 1]を区別する場合は「古朝鮮」という。政権をいう場合は「朝鮮王朝」ともいう。地域を言う場合は「韓半島」または「朝鮮半島」が使われる[注 2]。
概要[編集]
朝鮮半島で高麗の軍隊の指揮官であった李成桂が高麗王家から禅譲を受けて実質滅ぼして、高麗王に即位し、明から「権知朝鮮国事」(平たく言えば高麗王代理)に封じられ、朝鮮王朝を実質創建した。都を漢城(現ソウル)に移した。国を治めるための教えとして、高麗王朝の仏教に代わり儒教、特に朱子学を重視した。
李成桂は5男の芳遠(後の太宗)に引退させられ、嗣子が2代目を継いだが、これも弟の芳遠に追われた。
1403年に太宗は明の永楽帝から「朝鮮王」の冊封をうけ、対外的に「朝鮮王国」となった。1419年には、「応永の外寇」として上王となった太宗指揮による李氏朝鮮軍による対馬国侵攻があった。1418年には太宗3男で、ハングル創始者としても著名な世宗が4代王として即位し、5年後上記の外寇で悪化した朝日関係を修復した。
1510年、三浦の乱がおこる。対馬の日本人による反乱である。1637年、丙子胡乱が起き、後金(後の清)は大軍を送り込み、16代仁祖は漢城の南の南漢山城により抵抗したが、翌年降伏し、明に代わって宗主国として従属することになった。
政権は9代成宗歿後は官僚の派閥争いに悩まされ、23代純祖以降は幼少即位の王が続いて外戚が政権を蹂躙する勢道政治となった。
25代哲宗で一旦男系子孫が絶え、16代仁祖の9世孫(雲孫の子)からのちの大韓帝国皇帝の高宗が冊立された。
身分制度[編集]
「朝鮮半島の身分制度」も参照
両班・中人・常人・賎人の4つに大別された。儒教文化の担い手は両班であった。両班は文班と武班とに分かれる。儒学のみを学び、科挙に合格すると土地と禄俸などを国家から受け、地主となる。両班は租税、貢納、労役が免除された。
中人は、外国語・医学・天文学・法律学など専門技術を学び世襲となっていた。医官は医学を身に付けて、律科の試験に合格する。
常人は商人、農民、職人である。
ウィキペディア[編集]
ウィキペディア日本語版は「jawp:李氏朝鮮」で立項しているが、これは誤りであるといえる。「朝鮮」の名称は、当政権でしか使われないので、「李氏」を国名に付ける必要はまったくない。