臼井城
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臼井城(うすいじょう)とは、現在の千葉県佐倉市臼井田869にかつて存在した日本の城である。
概要[編集]
現在の佐倉市北西部、臼井台と呼ぶ印旛沼南岸の高台に存在した城である。
この城は12世紀初頭、すなわち平安時代後期に千葉常兼の3男であった臼井常康(六郎)が築城したといわれる。南北朝時代の初期に中興の祖といわれる臼井興胤が足利尊氏より臼井の所領を安堵された際に、城構えを整備した。
以後は臼井氏の居城として続いたが、戦国時代の弘治3年(1557年)に当時の城主・臼井景胤が死去すると、後継者の嫡子・臼井久胤が幼少だったことから、下総国生実城主・原胤貞が久胤の後見人として臼井城に入り、その後は事実上原氏の専権で統治が行なわれた。原氏は天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐で没落し、臼井城には3万石で徳川家康の家臣・酒井家次が入城する。慶長9年(1604年)に家次は上野国高崎藩に移封され、ここに臼井城は廃城となった。
現在は城跡に畑地と山林があり、地形の上から本丸跡や矢倉台、追手門跡、2の門跡などが推察でき、空堀跡も一部ながら遺存している。本丸跡の西方には、文明11年(1479年)に臼井城に当時立て籠もっていた千葉孝胤を太田道灌が攻めた際に戦死したという道灌の弟・太田資忠(図書)の墓が残っている。