平井城
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平井城(ひらいじょう)とは、現在の群馬県藤岡市西平井字新曲輪235-1にかつて存在した日本の城である。関東管領の上杉氏の居城であった。
概要[編集]
室町時代中期の永享10年(1438年)に当時の関東管領であった上杉憲実の命令を受けた家臣の長尾忠房が築城した。戦国時代の天文21年(1552年)春、関東管領の上杉憲政は関東に勢力を拡大していた相模国の北条氏康の侵攻に敗れ、平井城を放棄して越後国の長尾景虎の下に逃亡した。
この城は南西側から迫る関東山地から関東平野の続く出口に築かれた城であり、この城の北東およそ2キロほどの所には中世から主要道路であった鎌倉街道があり、関東山地へ連なる日野地区の山間には多くの山城が築かれ、その谷間を通る峠道には信濃国佐久方面に通じている。本丸は鮎川湾曲部の断崖上に築かれ、内堀と土塁で区画され、直径100メートル余りの五角形を呈し、北側には二重の堀が巡らされている。県道を挟んだ西側に2の丸と呼ばれる副郭部があり、この南側に「ささ郭」という曲輪が南北に連なっている。このように平井城は鮎川の断崖を利用して東の備えを強固にしているのに対し、西側は山地と丘陵が控えているため、こちらは防御がやや手薄であった。このため、主郭西の西南およそ1.2キロの地点に万が一に備えた出城である平井金山城があり、西側の備えを固めている。