北条綱成

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北条 綱成(ほうじょう つなしげ/つななり、永正12年(1515年) - 天正15年5月6日1587年6月11日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将後北条氏の一族で家臣。相模鎌倉郡玉縄城主。北条氏綱の娘婿で、氏康の義弟である。黃備え隊。関東における高名な勇将で「地黄八幡」の異名で恐れられた。

生涯[編集]

出自[編集]

北条綱成に関しては出自が定かではない。通説では駿河戦国大名今川氏宿老遠江高天神城(土方城)主であった福島正成の子とされている。正成が大永元年(1521年)に甲斐武田信虎との戦いである飯田河原の戦い戦死したため、氏綱が当時7歳の綱成を引き取って婿養子にした、とされている。しかし、当時の福島氏の一族の中に正成という人物は存在しておらず、またその戦死で遺児を氏綱が引き取るというのは疑問が残される。このため、正成という人物は創作されたのではないかと見られている[1]

近年では綱成の父親は大永5年(1525年)8月22日の武蔵白子原合戦で大将を務めて戦死した伊勢九郎と見られている。伊勢九郎は別名、櫛間九郎と記されていることから福島氏の一族と見られる。伊勢姓を称しているのは氏綱からその名字を与えられたものと見られている。また仮名の九郎も後北条氏の歴代当主の仮名である新九郎に通じるため、この伊勢九郎は後北条氏から一門として処遇されていたものと見られている[1]

母に関しては朝倉氏(養勝院殿)という。後北条氏の家臣・朝倉氏の出身と見られている[2]

兄弟姉妹に関しては弟に綱房松田盛秀の妻(松田盛秀夫人)となった妹がいる。子に氏繁氏秀浄光院殿遠山隼人佐室)、高源院殿北条氏規室)がいる。

経歴[編集]

永正12年(1515年)に生まれた綱成は北条氏康と同年齢である。名の綱成は氏綱からの偏諱と見られる。ただし他の御一家衆が後北条氏の通字である「氏」を称しているのに対し、綱成は当主の下字の偏諱を受けていることから、その家格は他の御一家衆よりも低く位置付けられていると見られている[3]

天文2年(1533年)10月に史料上に名前が見られる。同時期に氏綱の娘・大頂院殿を妻に迎えて氏綱の娘婿となっている。はじめ綱成は玉縄城に恒常的に在城していたとされ、基本的には後北条氏の居城・小田原城に在城した城主・北条為昌の下で城代を務めていたと見られる。天文11年(1542年)に為昌が死去すると、正式に玉縄城主の地位を継承する[3][4]。ただし綱成は為昌の全ての遺領と遺臣は相続していない。相続したのは玉縄領と三浦郡、それに玉縄衆であり、残りは当主の氏康と、氏康の叔父にあたる玄庵に管轄が移されている。また、河越衆に関しては綱成の管轄のままだったが、後に大道寺氏に移されている。このことから、為昌と違い娘婿という準一門である綱成には、為昌ほどの強大な権限は与えられていなかった模様である。

仮名の孫九郎は天文13年(1544年)閏11月の「江島遷宮寄進注文」まで確認される。そして天文17年(1548年)5月には官途の左衛門大夫を称している[4]

綱成は後北条家の軍事の中核として各地の合戦に参加している。天文13年(1544年)9月には安房に出陣した。天文14年(1545年から扇谷上杉氏上杉朝定山内上杉氏上杉憲政古河公方足利晴氏による大連合軍が攻めて来ると、綱成は北条幻庵と共に武蔵河越城に籠城して連合軍の進撃を天文15年(1546年)4月まで死守し、氏康の河越夜戦における大勝に大いに貢献している。永禄12年(1569年)6月から元亀2年(1571年)1月にかけては妹の子・松田憲秀と共に駿河深沢城に籠城して善戦したが、武田信玄の攻撃を受けて最終的には退去している。その後、北条氏光と共に相模・駿河国境にある足柄城に在城した。このように、綱成は後北条氏の最前線で常に戦い続けた[5][6]

元亀2年(1571年)10月に氏康が死去すると、その年末に家督を嫡子の氏繁に譲って隠居し、受領名は上総守を称し、出家して法名は道感(どうかん)と称した。ただし隠居したといってもまだまだ現役として働いており、天正10年(1582年)10月には信濃小諸城に在城し、天正12年(1584年)2月から8月にかけては上野厩橋城に在番している[7]

また氏康に有力な兄弟がいなかったためか、綱成は氏康から信任されて外交関係の取次としての権利も与えられ、武蔵岩槻城太田資正下総結城晴朝下野那須氏陸奥蘆名盛氏などとの外交を務めている。ただし、氏康の3男・氏照が成長したこともあり、永禄10年(1567年)頃から取次は氏照に交替となっており、綱成のその後の取次としての権利は次第に失われている[7]

天正6年(1578年)には嫡子の氏繁が自身に先立って若死する不幸に遭っており、家督は氏繁の子の氏舜が継承したが、この氏舜も天正10年(1582年)頃を最後に姿が見られないことから早世したものと思われ、嫡孫まで失った綱成の家督は最終的には氏舜の弟・氏勝が継承しており、綱成はこの若い孫を後見していたのではないかと思われる。

綱成は玉縄衆の筆頭として知行1533貫文余を与えられており、これは後北条氏の家臣団の知行高ではナンバー5に当たる[4]

天正15年(1587年)5月6日に死去[7]。73歳没[7]。法名は円竜院殿覚眩道感大禅定門[7]

綱成の死後、わずか3年で後北条氏は豊臣秀吉に攻められて小田原征伐で滅亡した。

脚注[編集]

  1. a b 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P146
  2. 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P147
  3. a b 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P148
  4. a b c 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P149
  5. 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P152
  6. 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P153
  7. a b c d e 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P154

参考文献[編集]

外部リンク[編集]