清水康英
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清水 康英(しみず やすひで、? - 天正19年6月2日(1591年7月22日))は、戦国時代の武将。後北条氏の家臣で伊豆加納矢崎城主(南伊豆町)、下田城主。後北条家で伊豆郡代・伊豆衆寄親・評定衆などを務めた。官途は太郎左衛門尉。受領名は上野介。父は清水綱吉[1]。弟に英吉。長男に新七郎、次男に政勝がいる。
経歴[編集]
名の「康」は北条氏康からの偏諱と見られる。発給文書の中には「康実」とするものも確認できるのだが、これが写本であり、草書の具合から見て誤写の可能性が考えられている[1][2]。
史料上において確認できるのは天文20年(1551年)7月からである。氏康に仕えて伊豆郡代を務め、笠原氏と共に伊豆衆寄親を務めた。その後は評定衆に列し、永禄2年(1559年)の「役帳」では伊豆奥の加納郷を本拠にして、所領は847貫文を領している[2]。
氏康・氏政・氏直の3代に仕え、長男の新七郎は永禄12年(1569年)12月に武田勝頼と駿河国蒲原城で戦って討ち死にしている[2]。
天正16年(1588年)に豊臣秀吉との戦いに備えて、伊豆下田城の城将となっている。天正18年(1590年)の小田原征伐では下田城に籠城して奮戦するが、同城は長宗我部元親や脇坂安治ら豊臣水軍によって包囲攻撃され、4月23日に康英は降伏し、小田原開城後は河津三養院に隠棲し、翌年に没した[2]。法名は常楽寺殿茂林祖繁居士[2]。
長男の新七郎が既に戦死していたため、家督は次男の政勝が継承した。