松田康郷
ナビゲーションに移動
検索に移動
松田 康郷(まつだ やすさと、天文9年(1540年) - 慶長14年5月2日(1609年6月3日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。後北条氏の家臣。
生涯[編集]
仮名は孫太郎。官途は六郎左衛門尉。受領名は肥後守。父は松田康定で、彼は松田盛秀の弟なので、康郷と松田憲秀は従兄弟となる。3歳上の兄に松田康長がいるが、彼は庶子だったためか嫡子としては扱われていない[1][2]。
北条氏康に仕え、永禄2年(1559年)の『役帳』で従兄の憲秀の所領から相模国飯田岡を分与されているとあるため、憲秀の同心だった可能性が高い。奉行として働いているが、武勇にも優れており、永禄9年(1566年)4月に憲秀が指南する下総国の原氏の属城である臼井城が越後国の上杉謙信に攻撃された際には臼井城に援軍の将として籠城し、戦功を挙げて北条氏政から賞されたという[2]。
天正18年(1590年)の小田原征伐の後は、結城秀康に仕えて600石の知行を与えられた[2]。慶長14年(1609年)5月2日に70歳で死去[1]。