山角康定
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山角 康定(やまかく やすさだ、? - 天正18年7月18日(1590年8月17日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。弟に定次。子に直繁、大藤秀信室。
略歴[編集]
山角定吉の嫡男。後北条氏に仕えて御馬廻衆寄親、評定衆を務めている。官途は四郎左衛門尉、さらに受領名は上野守、上野介を称した[1]。
康定は弘治元年(1555年)2月から史料に確認でき、この際には官途は四郎左衛門尉を称している[2]。名の「康」は主君の北条氏康からの偏諱と思われるので、氏康の時代から後北条家に仕えていたようである。永禄2年(1559年)の役帳では御馬廻衆筆頭で寄親を務めており、所領は200貫文余を領した。この年に氏康が隠居したので、跡を継いだ子の氏政に仕えている。
元亀3年(1572年)3月から評定衆に列し、天正17年(1589年)まで16点の北条家裁許朱印状に署名していることから、後北条家の中心的な評定衆の一人として活躍していたことがわかる。天正4年(1576年)4月から上野守・上野介を称した[2]。天正8年(1580年)に氏政が隠居したため、跡を継いだ嫡子の氏直に仕えている。
天正18年(1590年)の小田原征伐では、小田原城に籠城する。しかし7月5日に小田原城が開城してからわずか13日後の7月18日に死去している。死因は不明だが、病死では無い可能性も高い。法名は桑翁宗英禅定門[2]。