川越城
川越城(かわごえじょう)とは、現在の埼玉県川越市郭町2-13-1にかつて存在した日本の城である。本来は河越城と表記されていた。
概要[編集]
川越城は、現在の本川越駅の北東およそ1.2キロ、新河岸川(赤間川)の右岸に面した台地端に残る平山城であある。本来は河越城のため、記録の時代により河越城とも書かれる。
この城は室町時代中期に武蔵を支配した扇谷上杉氏の当主・上杉持朝が家臣の太田道真・道灌父子によって長禄元年(1457年)に築城された。その後、扇谷上杉氏の支配下の城として重要視されたが、やがて相模から進出してきた新興勢力の北条氏綱によって天文6年(1537年)に攻略されてしまい、当時の扇谷上杉家の当主・上杉朝定はこの城を追われた。
天文10年(1541年)、氏綱の娘婿である北条綱成が城主に任命される。同年、北条氏綱が死去し、その嫡男・氏康が跡を継ぐと、朝定は関東管領・山内上杉憲政と和睦し、さらに古河公方・足利晴氏と連携して後北条氏と対立し、天文15年(1546年)に三者による大連合軍を起こして北条領に攻め込んだ。この3者の連合軍の兵力は約8万であるため、当時の氏康の兵力では勝ち目は無かったが、河越城を守る綱成は連合軍の川越城攻めに対してよく防いだ。そしてこの間に約8,000の援軍を引き連れた北条氏康が後詰に駆けつけ、夜陰に乗じて連合軍に奇襲をかけた。同時に河越城からも城兵が打って出て、連合軍はこの奇襲により壊滅した。晴氏と憲政は何とか逃げ延びたが、朝定は戦死して扇谷上杉家は滅亡した。これにより関東における後北条家の覇権は確定し、以後、山内上杉氏と古河公方の勢力は衰退した。なお、この奇襲の激戦を物語るものとして、20世紀に至るまでこの辺りの地面を掘ると、おびただしい数の白骨が出土してきたという逸話がある。
その後北条家は氏康が死去すると次第に停滞期に入る。天正15年(1587年)には綱成も死去し、その3年後の天正18年(1590年)に豊臣秀吉による小田原征伐を受けることになり、川越城は秀吉の命令で派遣された前田利家の軍勢によって落城した。この征伐で後北条家は滅び、関東は徳川家康の支配下となる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで家康の覇権が確立し、3年後に江戸幕府が開かれると、この川越城(川越藩)は江戸城の北西に位置する重要な拠点として幕府から特に注視され、譜代大名が8家にわたって入れ替わるようになった。この8家21名の城主の中で特に有名な城主が、寛永10年(1633年)に老中に任命されて第3代将軍・徳川家光や第4代将軍・徳川家綱を補佐して幕政を主導した「知恵伊豆」の松平信綱である。信綱が川越城主に任命されたのは寛永16年(1639年)のことで、信綱は城の大改修、増築を行なって15万平方メートルの城地に本丸、2の丸、3の丸を構え、3つの櫓と8つの門を構築した。また、野火止用水を開削して新田を開くなど、この信綱の時代に川越藩政の基礎が築かれた。
次に有名なのが、元禄7年(1694年)に川越城主に任命された柳沢吉保である。吉保は第5代将軍・徳川綱吉の側用人として重用され、後に老中格、老中上座に任命されて権勢を振るった。吉保は宝永元年(1704年)まで川越城主を11年間務めている。
その後、幕末まで譜代大名が入封し、石高は幕末の時点では17万石であった。
現在は城跡に川越市役所、川越市営球場、川越高校、初雁公園などが築かれており、本丸御殿には資料室が公開されている。
主な建築物[編集]
- 本丸御殿
川越城の本丸御殿は桁行19間、梁間5間、屋根入母屋造り、䙁瓦葺き、正面二間に大唐破風、霧除けつきの玄関を構えた武家造り風の建築である。棟札があり、これから幕末に入る直前の嘉永元年(1848年)に当時の川越藩主・松平斉典(大和守)の時に造られたことが判明している。16棟を数えた御殿の中の玄関と大広間、使者の間の建物である。
埼玉県指定文化財。
- 霧吹きの井戸
川越市営球場の北側に、川越城が敵軍の攻撃を受けた際に蓋を開くと霧が立ち込めて城を包み隠したという伝説の「霧吹きの井戸」がある。
アクセス[編集]
- 東武東上線川越駅(本川越駅)からバスで(東武バス神明町車庫行きほか(蔵のまち経由)「札の辻」下車徒歩10分)。
- 東武東上線川越駅(本川越駅)からバスで(小江戸巡回バス「本丸御殿」下車徒歩すぐ)。
- 東武東上線川越駅(本川越駅)からバスで(小江戸名所めぐりバス「博物館前」下車徒歩1分)。