笠原信為
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笠原 信為(かさはら のぶため、? - 弘治3年7月8日(1557年8月12日))は、戦国時代の武将。相模の戦国大名・北条家の家臣。父は笠原信隆。子に笠原康勝。
略歴[編集]
武蔵国橘樹郡小机城城代。大曾根城主。受領名は越前守[1]。文化的教養もあり、和歌・漢詩に精通して造詣が深かった。
最初は北条早雲に仕えたが、早雲に仕えたのはまだ駿河国にいた時代のことだと言われるので、かなり古くからの家臣である。享禄2年(1529年)12月、早雲寺殿(北条早雲)の御茶湯料として熊野堂5貫文を雲松院に寄進している。なお、史料上ではこれが初見となっている。享禄4年(1531年)に小机領が北条為昌の管轄になった後も引き続き小机城代の地位は維持され、為昌の補佐役に任命された。天文11年(1542年)に為昌が死去した後、小机領の管轄は北条幻庵の管轄になるが、その下でも引き続いて城代の地位は維持されている[1][2]。
天文15年(1546年)12月、所領の一部と家督を嫡子・康勝に譲って隠居する。弘治3年(1557年)7月8日に死去した。ただし、6月8日(7月4日)に死去とする説もある(『異本小田原記』)。法名は乾徳院殿雲松道慶庵主[2]。
早雲・氏綱・氏康の3代に仕えた宿老であるが、早雲の駿河時代に既に仕えていたことを考えると、享年は90に近かった可能性がある。