北条幻庵

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北条 幻庵(ほうじょう げんあん、生没年不詳)は、戦国大名である後北条氏の一門。法名は長綱(ちょうこう)、のち宗哲(そうてつ)。初代・北条早雲の末子で、第2代・北条氏綱の弟。かなりの長寿をした戦国武将として有名だったが、近年ではその生年も没年も見直しが行われている。後北条家の参謀政治家として活躍した。

生涯[編集]

これまでは『北条五代記』にある「明応2年(1493年)に生まれ、天正17年11月1日1589年12月8日)に97歳で死去した」という長寿の記録で有名だったが、近年は見直しが進められている。生年に関しては明応年間ではなく、永正年間ではないのかと見られている。

幼名は菊寿丸(きくじゅまる)といい、幼少の頃から箱根権現に入寺してその後継者に位置付けられていた。永正16年(1519年)4月、父の早雲が隠居して間もない時期に所領を与えられているが、その知行高は4400貫文に及んでいる。そのうちの3500貫文が箱根権現領、さらに別当堪忍領まで幻庵に与えられているので、この時点で幻庵が箱根権現領そのものを継承していたと見られ、つまりこの時点で箱根権現そのものを実質的に継承していたのではないかと見られている。

大永2年(1522年)、近江国三井寺上光院に住院し、大永4年(1524年に出家した。それから程なくして相模国に帰国し、箱根権現の別当に就任したと見られている。箱根権現別当としては天文3年(1534年)から4年間ほどの在職を確認することができるが、天文9年(1538年)に幻庵は同職に就任していないので、恐らくその間に職を融山に譲ったと見られている。ただし、箱根権現そのものは幻庵の所領としてそのまま支配下に置かれていたので、幻庵が事実上の主であることに変わりはなかったと見られ、別当職の譲渡はあくまで表面的なものにすぎないと見られている。

幻庵には2つの法名「長綱」と「宗哲」の2つがあったといわれる。長綱の綱は兄の氏綱の1字をとったものと見られる。宗哲に関しては正確には「幻庵宗哲」と称していたと見られている。ただ、これらの使い分けの基準などは不明で、長綱の法名は天文20年代を最後に史料上で使用が見られなくなり、幻庵宗哲の法名が用いられるようになった。

また、幻庵は箱根権現別当の地位にあったが、その活動は宗教・僧侶としてのみであったというわけではなく、兄の氏綱や甥の北条氏康に従って、武田信虎甲斐国で戦ったりなど、軍人としても活動している。甥の北条為昌早世すると、その所領の一部を引き継いで庶政を担当している。北条家の重臣・遠山綱景が武蔵六所明神に捧げた願文に「当主の氏康夫妻と並び、幻庵の覚えにかなうことを望む」とあることから、幻庵の存在が北条家中で如何に大きかったかを物語っている。

しかし、永禄年間に入ると老齢もあってか、その支配領の担当は長男の北条時長(北条三郎)が担当している。恐らく家督も譲られていたと見られるが、子がないまま永禄3年(1560年)7月に早世した。彼には子供が無かったので、家督は幻庵の次男・北条綱重(氏信)が継承した。しかし、綱重ともう1人の息子である北条長順は、武田信玄駿河侵攻においていずれも戦死し、ここに幻庵の息子は全滅してしまった。やむなく、氏康の7男・西堂丸を養子に迎えたが、彼もすぐに越相同盟の締結と共に上杉謙信の養子として越後国に赴くことになったので養子関係は解消され、残されたのは綱重の子でまだ幼児の孫・北条氏隆が残されるのみとなった。このため、氏隆が成長するまで幻庵がなおも働き続けた。

しかし、天将年間に入ると幻庵の活動は少なくなり、書状に関しては天正8年(1580年)8月の物が最後に、史料上でも天正11年(1583年)11月を最後に見られなくなっている。従来没年と言われていた天正17年(1589年)はこの点からも疑わしく、氏隆の初見となる文書が見られる天正13年(1585年)あたりが没年なのではないかと見られている。ただ、仮に永正年間生まれで天正13年に没したとしても、80歳は優に超えていたことになり長寿であることに変わりはない。

幻庵は高い教養を身に着けた文化人としても評価が高く、その死に関しては手に印を結んで口では禱を唱え、即身成仏の瑞相を表したといい、人々からは権化の再来であると評されたという。初代の早雲から5代の氏直の時代までを北条家の家臣として唯一、生き抜いた存在であったと言われている。また、武略をもって主君を助け、仁義を施して天意に達したと評されている。

法名は金竜院殿明岑宗哲大居士。

なお、幻庵とその子孫は、代々が小田原城近くの久野に居住していたことから、「久野殿」と称され、その家系は久野北条家とも言われている。

参考文献[編集]