世田谷御所

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世田谷御所(せたがやごしょ、生没年不詳))は、戦国時代女性後北条氏の一族。北条氏綱の娘で、北条氏康の姉妹。

生涯[編集]

北条氏綱の娘で、武蔵国世田谷郷(現在の世田谷区)を本拠とする関東足利氏の御一家である吉良頼康に嫁いだ。吉良氏は足利氏の御一家という高い家格を有していたので氏綱も無下にはできず、当初は対等以上の待遇を与えざるを得なかった。娘を嫁がせたのも高い家格を持つ吉良氏を姻戚にすることで、後北条家の内部に取り込もうとしていた可能性が高い。頼康の「康」も北条氏康からの偏諱と見られている[1]

天文8年(1539年)6月7日に頼康が安産祈願をしていることから[2]、この年までに結婚していたことがわかり、婚姻時期はその数年前であったと考えられている。なお、名前の世田谷御所とはあくまで吉良氏の本拠の世田谷に足利氏の一族であるため御所と付けたものであり、本名は不明である。

世田谷御所は頼康との間に嫡男の太郎、次男の次郎、3男の辰坊丸の3人の男子に恵まれた。しかし、史料では幼名あるいは仮名でしか伝わっていないため、3人とも早世した可能性がある。永禄3年(1560年)12月、世田谷御所は実妹の崎姫堀越六郎との間に生まれた子の氏朝養子に迎えており、永禄4年(1561年)2月に氏朝が家督を継承している。頼康は家督を譲った年の12月5日に死去しており、その後に世田谷御所は「大方殿」と称されるようになった[3]

世田谷御所は養子(甥)の氏朝が北条幻庵の娘・鶴松院を妻に迎えた際に、幻庵が娘に様々な心得などを記して与えた宗哲覚書に「大方殿」の名前が確認されるので、少なくとも永禄年間の中頃までは存命していたことが確認できる。しかし、没年や法名などについては一切が不明である[3]

脚注[編集]

  1. 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P40
  2. 快元僧都記
  3. a b 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P41

参考文献[編集]