足利晴氏
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足利晴氏(あしかがはるうじ永正5年(1508年)-永禄3年5月27日(1560年6月20日)とは古河足利家4代目当主である。事実上幕府が認めた最後の関東公方である。
生涯[編集]
1508年に3代目古河公方の足利高基(高氏)の嫡子として生まれる。その後将軍の足利義晴より晴の字を貰い、晴氏と名乗る。
1531年に関東亨禄の乱にて父の高基(高氏)から公方職を奪取し、4代目公方となる。また同年祖父が亡くなる。
その後後北条氏と和睦し、共に小弓公方を倒す事となり、1538年に北条軍は足利義明と足利義純を討ち取り、勝利し、小弓公方は滅亡した。
1541年北条氏綱が亡くなり、北条氏康が3代当主となると、徐々に距離が遠ざかり、1546年に山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、今川義元、里見義堯らと連合し8万の兵で河越城を攻める(河越城の戦い)。しかし、地黄八幡の北条綱成や北条幻庵らが籠城。その後第二次河東一乱で今川義元と和睦した氏康の作により、奇襲で総崩れとなり、撤退となった。
その後嫡男の足利藤氏を次の公方にしようと挙兵するも、敗北し、北条氏康により幽閉。その後氏康の妹との子てある。足利義氏が関東公方となった。その後足利義輝により幽閉は解かれるも、嫡男藤氏が公方奪還を試みて挙兵し再び幽閉となった。
そして1560年に死去。享年52歳
参考[編集]
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