武蔵松山城
武蔵松山城(むさしまつやまじょう)とは、現在の埼玉県比企郡吉見町北吉見327にかつて存在した日本の城である。
概要[編集]
現在の吉見町の西端、市野川の左岸に盛り上がる海抜57メートルの丘陵一帯に存在した山城である。
室町時代前期の応永6年(1399年)に扇谷上杉氏の重臣・上田友直が構築し、長禄2年(1458年)に友直の孫・綱直が同僚の太田道灌に城の改修を依頼して構えが大幅に強固にされたと言われている。
この城はその位置から古河公方、後北条氏、太田氏、上杉氏など、近隣の諸氏による争奪戦が繰り返された。天文6年(1537年)に北条氏綱の攻撃を受けて川越城を追われた扇谷上杉朝定は松山城に逃走したが、氏綱は朝定を追って松山城にまで迫った。しかし道灌の縄張りと勇将・難波田憲重の抗戦に手を焼いた氏綱は松山城攻略を諦めて撤退した。
その後も永禄4年(1561年)に越後の長尾景虎が攻め込んできて上田朝直が抗戦し、この時は長尾景虎の猛攻の前に松山城は落城している。永禄5年(1562年)春、前年の第4回川中島の戦いで打撃を受けて容易に動けなくなった上杉政虎(長尾景虎の改名)の隙をついて、朝直は北条氏康・氏政に援軍を要請し、政虎から城主に任命されていた上杉憲勝を降して朝直が城主に復帰したことで知られている。
天正18年(1590年)の小田原征伐で松山城は上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの攻撃を受けて落城する。その後、関東が徳川家康の領土になると、譜代の重臣である松平家広が城主となり武蔵松山藩が成立するが、家広の跡を継いだ忠頼の時代である慶長6年(1601年)をもって城は廃城となった。
ただ松山の地は石高で6万石、さらに交通の要衝でもあったことから経営の拠点は必要であり、武蔵松山陣屋が設置されるなどしている。
現存する城跡の規模は東西およそ250メートル、南北300メートル余りで、雑木林に覆われている。本丸、2の丸、3の丸、物見櫓、食糧庫跡や深い空堀、虎口などが残っており、典型的な山城の構えを現在に伝えている。埼玉県指定の史跡で、丘陵上の櫓台の上に城跡の碑が建立されている。