遠山綱景
遠山 綱景(とおやま つなかげ、? - 永禄7年1月7日(1564年2月19日))は、戦国時代の武将。後北条氏の家臣。武蔵遠山氏の当主。遠山直景の長男。子に遠山藤九郎、遠山隼人佐(実名不詳、妻は北条綱成の娘・浄光院殿)、遠山弥九郎、遠山政景、遠山忠孝、遠山景宗、法性院(後に北条氏綱養女となり、太田康資に嫁ぐ)、大道寺政繁、島津主水、伊丹政富に嫁いだ娘3人などがいる。官位は甲斐守、丹波守。
生涯[編集]
後北条家の重臣で、武蔵国江戸城代、江戸衆寄親、宿老を務めた。仮名は藤九郎。受領名は甲斐守、丹波守[1]。諱の綱景は北条氏綱からの偏諱である。氏綱・氏康・氏政の3代にわたって仕えた重臣。
父・直景が天文2年(1533年)に死去したため、家督を継いで江戸城代となる。天文3年(1534年)には小弓公方の足利義明と政治的な交渉を行なっていることが確認されている。その他の政治的な文書では後北条家の重臣筆頭として名前が見え、今川義元や武田信玄との交渉においても重臣代表としての役割を果たしたり、取次を担当したりしている[1]。
天文22年(1553年)5月、古河公方の足利義氏が綱景の城である下総国葛西城に御座所を立てており、古河公方の保護者としての役割を担当するほどの重臣だったことがうかがえる。
後に長尾景虎が関東に侵攻してくると、義氏は景虎に追われて御座所を移したが、そのたびに綱景が義氏を助けている。また、義氏の家臣、つまり古河公方家の家臣の知行も綱景が江戸で所領を与えていたという[2]。
永禄7年(1564年)1月8日の第2次国府台合戦において、里見義堯に敗れて戦死した[2]。この際、嫡男(次男)の隼人佐も一緒に戦死した。長男の藤九郎はそれよりかなり前に夭折していたため、家督は4男(あるいは5男)の政景が継承した。