垪和氏続
垪和 氏続(はが うじつぐ、? - 天正8年(1580年)2月)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。
略歴[編集]
仮名は又太郎。受領名は伊予守。父は後北条家の重臣で武蔵松山城代の垪和氏堯。
史料上の初見は弘治3年(1557年)7月3日に父の後継者としての地位を北条氏康から安堵されているものであるため、この頃に父が死去して家督を相続したと見られる。永禄2年(1559年)に伊予守を称し、松山衆寄親としての地位と1028貫文の所領を与えられている。
永禄11年(1568年)12月、甲斐国の武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄して駿河侵攻を開始すると、北条氏康と北条氏政は今川氏真を支持して甲斐武田氏と敵対。氏続は氏政に従って駿河国に向かい、この際に駿河国富士郡南部の須津八幡宮多聞坊に判物を出している。さらに氏政から駿河国興国寺城の在番を命じられるが、同年8月には城主に任命され、甲斐武田氏の最前線の城に在城するようになった。
元亀2年(1571年)1月、武田信玄の攻撃を受けるが一族の垪和善次郎と共にこれを防ぎ切り、氏政から戦功を称賛された。その後、この年の7月に在城を解かれている。この年の冬に氏康が死去し、氏政は信玄との同盟を復活させて甲相同盟を締結。これにより元亀3年(1572年)1月に興国寺城は信玄に割譲されることになり、氏続は城を失うことになった。その後は氏政の側近衆として御馬廻衆に任命され、山角康定や松田康長らと共に伊豆国三島護摩堂などに禁制を出したりしている。
天正7年(1579年)には嫡男の又太郎が北条氏直から偏諱を与えられている。天正8年(1580年)2月に死去[1]。Wikipediaでは天正12年(1584年)まで存命していたなどと出鱈目が書かれているが、恐らく氏続の死後に家督を継いだ嫡男の又太郎(受領名は伊予守)と混同しているものであると思われる。
脚注[編集]
- ↑ 『北条家并家臣過去帳抜書』