石巻康敬
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石巻 康敬(いしまき やすまさ、天文3年(1534年) - 慶長18年10月1日(1613年11月12日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。名は「やすたか」とも[1]。後北条氏の家臣。通称は彦六郎。左馬允、下野守[2]。父は石巻家貞。兄に板部岡康雄(板部岡江雪斎の養父)、康保。弟に天用院。
生涯[編集]
家貞の子で、康雄が長男、康保が次男と見られるため、康敬は3男であった可能性が高い。名の康は北条氏康からの偏諱と見られる。
北条氏康の時代から後北条家に仕え、史料上では永禄2年(1559年)の役帳でその名が見える[2]。氏康から氏政、氏直の3代に仕え、主に行政官僚、外交官として働いた。
天正7年(1579年)頃に次兄・康保が死去したため、石巻氏の家督を継承している。天正17年(1589年)に豊臣秀吉との間で名胡桃城事件が発生すると、氏政や氏直の命令で康敬は上洛し、秀吉に対して弁明に努めるが、秀吉には受け入れられず、そればかりか捕らえられて抑留されてしまう。天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条家が滅亡すると、その身柄を徳川家康に預けられるが、康敬は蟄居する。しかし家康の重臣・本多正信の推挙を受けて家康の家臣として復帰を果たした。
慶長18年(1613年)10月1日に死去。享年80。その遺体は康敬が開基となった中田寺に葬られた。なお、康敬の墓(横浜市泉区中田東4-56-19所在)[3]は現在横浜市登録地域文化財となっている[4]。
脚注[編集]
- ↑ 『領主石巻康敬(いしまきやすたか)と中田村』横浜市教育委員会
- ↑ a b 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P214
- ↑ 『石巻康敬の墓』横浜市教育委員会
- ↑ 「国・神奈川県および横浜市指定・登録文化財目録」横浜市教育委員会
参考文献[編集]
外部リンク[編集]
- 『領主石巻康敬(いしまきやすたか)と中田村』横浜市教育委員会