北条氏尭

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北条 氏尭(ほうじょう うじたか、大永2年3月15日[1]1522年4月11日) - 永禄6年4月8日1563年4月30日))は、戦国時代武将後北条氏の一族。幼名は菊王丸。通称は十郎、官位は左衛門佐。

略歴[編集]

第2代当主・北条氏綱の息子で第3代当主・北条氏康北条為昌の弟とされる。諱は氏堯とも書かれる。ただし、血縁関係に関しては系図や軍記類によって異なっており、はっきりしたことは不詳としか言いようがない[2]

天文10年(1541年)に氏綱が死去し、その翌年には為昌が死去するなど、後北条家一族での死が相次いだことから、氏堯は為昌に代わって北条領における支配などで藩屏として役割を果たすことが期待されたと見られているが、まだこの時は若年のためもあるのか氏康から役割をほとんど与えられず、叔父の北条幻庵から後見を受けるように命じられる程度に留まっている。恐らく、氏康を補佐する力量を身に着けるように幻庵から修業を積むように命じられたと見られている[2][3]

弘治元年(1555年)から後北条家の一員として、幻庵と連名で朱印状を出したり、禁制を出したりしている。また、同時期から一軍を率いて各地で軍事活動を展開するようになっている。永禄年間に入ると後北条家の外交分野にも大きく関与し、永禄2年(1559年)には京都吉田兼右と交流している。なお、同年に氏堯が病気になっており、その平癒のための祈祷を依頼したりしている。永禄3年(1560年)7月2日には出羽国米沢城伊達晴宗に対して書状を出しており、伊達氏との取次を担当していたことがわかる[3][4]

永禄2年(1559年)の「北条家所領役帳」では西郡飯田岡分(現在の小田原市)に160貫文をはじめ、1168貫文の知行高と4人の同心を有しており、知行高では第10位であった。永禄3年(1560年)に幻庵の嫡子北条三郎が死去したため、代わって小机城主を務めており、その領域支配を担当している。永禄4年(1561年)に越後国長尾景虎による北条領侵攻が行なわれると、氏堯は武蔵国川越城籠城して守将を務めた。長尾景虎が武蔵松山城を攻略した際に川越城も攻撃されたが、氏堯は川越城を死守。3月18日には高麗郡で長尾軍と交戦して戦功を挙げたという。さらに武田信玄から援軍として派遣されていた雨宮与十郎に対して感状を与えている[4]

こうして後北条家の一門(有力な御一家衆)として軍事、行政、外交で重要な役割を果たしていた氏尭であったが、永禄5年(1562年)8月に出した文書を最後に史料上から姿を消している。忌日に関しては4月8日と判明しており、永禄7年(1564年)1月の第2次国府台合戦に参加していない上、この時点で川越城の守将が北条綱重(氏信)であるとされていることから、恐らく永禄6年(1563年)に死去したものと見られている[5][注釈 1]

氏尭の子女に関しては様々な説があり、確実な子女では娘として智光院が挙げられており、彼女は里見氏の家臣・正木頼忠に嫁いでいる[6]。また、北条氏康の息子とされる北条氏忠北条氏光も近年氏堯の息子とする説が有力である。

脚注[編集]

  1. 兼見卿記』永禄2年(1559年)の記録より
  2. a b 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P32
  3. a b 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P33
  4. a b 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P34
  5. 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P35
  6. 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P36

注釈[編集]

  1. 里見氏に奪われていた、葛西城の奪還の際に、討死した説がある。

参考文献[編集]